第十六話 栄光 10
同年六月。 小雨続きの鬱屈とした空気を吹き飛ばすが如くの気炎を以って、竜之介は放課後、美咲を呼び出した。 場所は例によって焼却炉跡である。
「ここ、懐かしいね。 私達が告白し合ったのがここで、別れたのもここだったよね。 それで、今日は何の話?」
美咲は遠い目を覗かせ、後ろ手を崩す事も無く地面の石ころを軽く蹴り飛ばしながら、優しい声調で彼に訊ねた。
「俺は回りくどいのがどうも苦手やから単刀直入に言うわ。 美咲を呼び出したんは他でもない。 二ヵ月後に、中学最後の柔道全国大会がある。 俺がその個人の部で一昨年と去年優勝したのはよう知っとるわな? そこでや、俺がこの大会で優勝して三冠取ったら、また俺とヨリを戻してくれんか? 柔道は個人で続けるつもりやけど部活は引退するから練習時間も前ほど長くはならんし、この前みたいに美咲を寂しがらせたり悲しませたりは絶対せんつもりや。 今更こんな女々しい事言う男と付き合いたくない言うんやったら今この場で断ってくれてもええ。 やけど、今その約束を受けてくれる言うんやったら、俺はその想いを力に変えて、絶対今年も優勝したる。 だから、聞かせてくれ、美咲の想いを」
普段はクールな竜之介の見せた熱く真摯な態度とは裏腹に美咲はどこか冷淡であり、しばし俯いて思考していたかと思うと、おもむろに視線を戻して竜之介を見据えた。
「竜くんがそう言ってくれるのは嬉しいよ。 でも、竜くんが柔道を続ける限りは、いずれまたあの時みたいな事にならないとは限らないでしょ? 私はもう、あんな寂しい思いを抱きながら過ごすのは嫌だし、それ以上に、竜くんに気を遣わせたくないの。 だから――」
「――それは、まだ俺の事が気になっとる言う解釈してもええんか?」
美咲が全てを言い切らない内に竜之介は、彼女が言葉を途切れさせた間を見計らい、自身の言葉を割り込ませた。
「え? ……うん、そうだよ。 私は多分、今でも竜くんの事が好きだと思う。 でも、竜くんを好きだからこそ、私は竜くんに柔道を頑張って欲しいんだ。 私は、竜くんの足手まといになりたくないんだよ」
「わかった、それだけ聞けたら上等や。 んでこれは俺からの最後のお願いや。 さっきの返事、夏休みが終わるまで美咲が預かっといてくれんか。 ほんで夏休み明けの始業式の日ぃに改めて美咲の気持ちを聞かせてくれ。 その時にアカン言うんやったら、俺はもう美咲の事は諦める。 返事の日にち延ばして美咲の気持ちが揺らぐかも知れん言うずるい作戦や。 自分でも俺自身がこんな女々しいヤツやとは思わんかったわ。 でもな、俺はそれだけ美咲の事が好きなんや。 ずるかろうと女々しかろうと、俺が美咲を好きな気持ちだけは変わらん。 それだけは分かっとってくれ。 だから、この通りや――頼む」
返事は二学期の始業式まで待ってくれと美咲に希った竜之介は、言葉の最後に彼女へ向けて目一杯頭を下げた。 らしくない恭しき彼の態度を見せられたものだから、先程まで終始冷淡の気味であった美咲も戸惑いを隠さずにはいられず「お願いだから顔を上げて」と、少し慌てふためいた様子で懇願した。
「竜くんがそこまで言うなら、そうするよ。 でも、あんまり期待はしないでね。 期待してる分、竜くんを悲しませるのは私も嫌だから」
様々な感情が二人の間を飛び交う中、竜之介の真っ直ぐな想いに押し切られる形で美咲は彼からの願いを聞き入れ、対談は終わりを迎えた。
美咲はまだ俺の事が好きである――その事実だけでも、今の彼にとってはこの上ない力の糧であった。 全国大会まであと二ヶ月、これから美咲の気持ちがどちらに転ぶにせよ、三冠は必ず果たすと心に誓った竜之介は、その日以降、欲という欲全てを断ち、一意専心として稽古に取り組んだ。
それから全国大会までの竜之介の稽古振りはというと、まさに破竹の勢いと言うに相応しく、普段から竜之介と乱取りを行っている現役の柔道家である柔道部の顧問でさえ「もう勘弁してくれ」と泣きを入れるほど、その時の彼は三冠に向けて勇往邁進中であった。
そして来る同年八月中旬、熱気沸き上がる全国中学柔道大会の開会が大会開催県で宣言された。 今日の為に仕上げてきた竜之介の柔道技術は嘗てないほどにまで磨き上げられており、その仕上がりっぷりは他の誰でもない彼自身が身を以って体感していた。
中学最後の試合であり、三冠を賭けた負けられない試合であるにもかかわらず、彼の心は波紋一波立たぬ静謐な湖の如き落ち着きを払っていた。 その心は己自身の力量に恃んだ昂然の念が生んだ悟りでもあったが、それ以上に彼の心を支配していたのは、会場入り前に受け取った、彼のSNS宛に送られてきたある一通のメッセージであった。
[頑張って]
文字数にしてみれば、たったの四文字。 感嘆符も、絵文字すらも付属しておらず、まるで飾り気の無い単簡極まったメッセージである。 しかしそのメッセージが、己が愛して止まない意中の異性からのメッセージであれば話は別である。 その実竜之介は試合前の仲間からの激励も霞んでしまうほどに、そのたった四文字の応援に突き動かされていたのだ。
当に竜に翼を得たる如しの勢いで初戦を突破した竜之介は続く二回戦、三回戦も貫禄の一本勝ちで二冠の王者たる風格を見せ付けて準々決勝へと順調に駒を進めてゆき――そうして次の対戦相手は、奇しくも竜之介が小学生時代に全国大会で敗れた因縁の選手であった。 ここまで来たら俺は過去をも清算し、前人未到の三冠を手中に収めてやると意気込んだ竜之介は、あの応援を心に映しながら、審判の合図によって場内に入場する。
「はじめ!」
会場の熱気に負けぬ力強い合図で、三冠を目前とする彼の、天王山とも言える準々決勝が始まった――




