第十六話 栄光 7
馴れ初めの頃はあれだけ心躍っていた学校での竜之介との会話も、付き合い始めてから半年以上経った今では友人との日常会話よろしく以前より新鮮味が無く、自分の隣に彼が居る事が当たり前になっていた美咲にとって、現今の竜之介との恋仲は「特別」ではなく「普遍」のものとなってしまっていた。
日に日に色褪せていく「特別」を直視出来ないでいた美咲は、崩すまいと心に決めていた均衡を保つ事を止めた。 つまり、例によって次の「特別」を手に入れようとしていたのである。 彼女が欲していたのは、竜之介との間柄の更なる発展だった。 現時点で二人が恋仲として行っていたのは、学校内での会話とSNSによるやりとりであったが、その二つの交流もマンネリ化してしまった以上、次に「特別」に値すると彼女が考えていたのは、二人きりの外出――いわゆるデートであった。
なるほど恋仲である以上切っても切り離せず、避けては通れないイベントである。 お互いが中学生という事もあり、身分や金銭面に鑑みても行き先や行動範囲などはどうしても限られてしまうが、二人が楽しめさえすれば場所はどこであろうとそれはデートに違いない。最悪出かけなくても家デートという方法もある。 だから、忙しい平日だろうと、用事のありがちな休日だろうと、お互いの同意とほんの少しの時間さえあれば、デートはどこでも成立するのだ――にもかかわらず半年経った今でもデート未経験である彼らが何故家デートすら出来なかったのか。 それは竜之介サイドにほんの少しの時間さえ無かったからである。
先述した通り竜之介は平日家に帰るのが十九時過ぎ、休日は夕方頃に帰宅する。 平日の十九時というと中学生の外出時間としては補導されかねない時間帯であるし、外出目的が異性の家に遊びに行くともなれば両家の親が黙ってはいないだろう。 平日に比べて早めに帰宅する休日も、柔道稽古で疲れ切った彼の家にお邪魔するのは申し訳ないという美咲の配慮から、時間的に多少余裕のある休日でさえもこれまでデートが実施された試しは無い。 そうして日ごとに募ってゆく竜之介への想いとは裏腹に、いつまでも交わる事のない平行な関係は、彼らに停滞を齎していた。 しかし同年の夏、彼女の待ち望んだ機会は卒然とやってきた。
"今日は盆休みで、柔道の練習も無い。 今は家族と墓参りに行っているが、昼過ぎ頃には帰宅出来そうだから、もし時間があったら俺の家に遊びに来ないか?"
その日、美咲は自宅で夏休みの宿題をこなしていた。 ところへ竜之介からSNSを通して先のようなお誘いが来たものだから、彼女は勉強などほっぽり出してばたばたと着替え始めた。 時刻にすると今はまだ十一時前。 竜之介が昼過ぎに家に到着予定なのだからもう少し余裕を持って準備すればいいのではと勘繰るのは野暮というものである。
美咲は次の特別を手に入れようとしてから「この日」が来るのををずっと待ち望んでいたのだ。 早い遅いの問題ではなく、今日、彼の家で二人きりになれるという事実を知ってしまった以上、彼女はじっとしてなど居られる筈が無かった。 だから最早時間など関係なく、自然と体が、心が動いてしまっていたのである。
少ないお小遣いを貯めて購入したお気に入りの可愛らしい服装も、母に習った薄化粧も、全てはこの日の為に私が磨き続けたおしゃれだ。 今日、私は今か今かと求め欲した彼との次の「特別」を手に入れるのだ――今にでも地から足が離れそうなほど浮き浮きした彼女の顔に、不安の色が混じり出したのは丁度昼頃だった。
"帰り道が渋滞で思うように進んでいない。 今の状態だと帰宅するのは十五時頃になりそうだ"
お盆の帰省ラッシュも最早風物詩となっており、例によってそれに巻き込まれた神家族の車は停止している時間の方が長いのではないかと思われるほどの距離しか進んでおらず、竜之介の父がぽつりと漏らした「あと二時間は掛かるな」という推測から、竜之介は帰宅予定が二時間ほど延びるかも知れないというメッセージを美咲に送った。
美咲は美咲で "大変だね、早く帰れるといいけど" と神家族の置かれた状況を斟酌したメッセージを竜之介に送信しながらも、送信した言葉が今の自分の気持ちを表していた事も彼女は認めていた。
いくら恋仲同士といえども、お互いが中学生である以上、人の家にお邪魔出来る時間は限られている。 各家庭の夕食の時間帯にも因るだろうけれども、十七時頃引き上げるのが一般的ではないだろうか。 後は相手側次第ではあるがいくら遅くとも十八時前が限度といったところで、それ以上過ぎてしまうのは言語道断だ。 以上の通例に照らし合わせると、竜之介が予定通り十五時過ぎに帰宅して最大二時間、渋滞が長引くほどに、竜之介と二人きりでいられる貴重な時間は容赦なく削られてしまう。 だからこそ美咲は「早く帰れるといいけど」と、竜之介側にも自分にも言ったのである。
――十五時になった。 あれから竜之介からの連絡は無い。 最後に貰った "渋滞が無くなったらまた連絡する" というメッセージを読み取るに、どうやらまだ渋滞は継続しているようだった。 私は今日、何時間、いえ、何分、彼との時間を過ごせるだろう――昼前の浮き浮きした感情など、彼女の心からとうの昔に消失していた。 今は自分自身を追い込む弱気のみが、美咲の胸中を巣食っている。 竜之介からの連絡さえあれば今すぐにでも彼の家へと向かえるのに、というもどかしさは彼女を焦燥へと誘うばかりである。
――十七時過ぎ。 ようやく竜之介から美咲へ連絡があった。
"渋滞は抜けたが、すっかり遅くなってしまったから家族が夕食はこのまま外食で済まそうと言っている。 悪いけど今日は会えそうにない。 俺の早とちりで美咲の予定を狂わせてしまって済まない"
十六時を過ぎた辺りから、美咲は仄かに予覚していた。 今日、私は彼に会えないんじゃないかしら、と。 果たしてこれっぽっちも当たって欲しく無かった予覚は皮肉にも的中してしまった。
それから彼女は無心で "渋滞なら仕方がない、せっかくの家族との時間なのだから大切にしないと!" という旨を彼に返信した。 文末に追加した絵文字の感嘆符は画面上の躍動感も虚しく、ただの空元気であり、まったくのやせ我慢であり、精一杯の強がりであった。
そうして美咲は竜之介からの返信も待たずにスマートフォンをベッドの上に投げ捨てた後、今まで押さえていた様々な負の感情が決壊したかのように、机に突っ伏して泣き喚いた。
この日の為に磨いたおしゃれも、この日の為に覚えた化粧も、彼と二人きりになれると浮き浮きしていたこの気持ちも、全てが、無駄になってしまった――その日美咲は夕食も碌に喉を通らず、風呂を済ませた後はスマートフォンの充電も怠ってそのままベッドに潜り込み、寝付くまで再び泣き明かした。