第十六話 栄光 5
思わず竜之介は進めていた歩をついと止め、剰え大きく一歩後退した。 俺はここに呼び出されて喧嘩をしにきたのだ。 なのに何故この子がこの場所に居るのか――状況がさっぱり飲み込めなかった彼は生唾をごくりと飲み込み、柔道の試合以上に思考を巡らせ、今彼女がこの場に佇立している理由を考えた。
竜之介の喧嘩の相手は、腕自慢の同級生でもなく、屈強な上級生でもなく、彼が半年以上も密かに恋い慕っていた相手、美咲であった。
「何で自分がこんなところにおるんや。 俺はさっき下駄箱にあった書置きで喧嘩売られてここに呼び出されたんや。 そいつがもうすぐ来るかも知れんから、こんな所におったら危ないど、早よ逃げときや」
どうやら竜之介はたまたまこの場所に彼女が居ると思ったらしく、ここがもうすぐ喧嘩の場になるであろうから避難しておけと美咲に注意を促す。 しかし彼女は、いつになく狼狽える彼の様子をまじまじと観察した後、くすくすと苦笑を漏らした。
一つ補足しておくと、この時竜之介が口にした「自分」とは、自身を指す「僕」や「私」といった一人称の意味合いではなく、相手を指す「あなた」「君」という二人称の意味合いである。 一部の関西地方では相手の事を「自分」と呼ぶ習慣があるらしく、僕も竜之介に初めてそう呼ばれた時はしばらく首を傾げていたものだ。
何故関西地方でそうした呼び方が生まれたかという由来は話すと長くなりそうだから割愛しておくけれども、喧嘩腰な人がしばしば口にする「てめぇ」という乱暴な二人称も元を辿れば「手前」つまり自身を指す一人称であり、竜之介が口にする「自分」もその辺りのニュアンスだと思ってくれれば良い。
「そんな人ここには来ないよ。 だって、神くんを呼び出したその書置きを書いたのは私なんだから」
満を持して果たし状の製作者は私だったのだと告白した美咲だったが、混乱に混乱を重ねられた竜之介は更に困惑の一途を辿るばかりである。
「何がどうなっとるんや。 まさか自分、俺の事が気に食わんから俺と喧嘩しようとか思っとったんか? いや俺は確かに毎日女子らに群がられとって、自分から見たらさぞかし鬱陶しい光景やろうとは思うけど、別に俺も好きでその子ら相手しとる訳ちゃうで? もうええわ言うても寄って来るんやからしゃあないやろ? まぁ、そういうのに興味無い言うたら嘘やけど、俺には柔道もあるし、せっかくこの前優勝もしたからあんま浮ついた事も出来んなと思てな。 適度にあしらっとるつもりではおるけど、毎日あんなもん見せられたら鬱陶しいわな、自分の気持ちもよー分かるし、毎度悪いとは思っとる。 でも、さすがになんぼ荒っぽい俺でも女相手に手ぇ出す事は男として出来んわ。 それでもどーしても気が済まんのやったら、一発どこでも好きなとこ殴らせたるから、それで勘弁してくれへんか?」
しどろもどろになりながら早口気味に捲し立てた竜之介を、美咲は変わらず微笑して眺めていた。
「ふふっ、やっぱり神くんって面白いね。 自分は何も悪い事してないのに、私の気を悪くさせたかも知れないから一発殴ってもいいだなんて。 強い癖に心も広いんだから、嫌でも女の子は寄って来るよね。 だって、それだけ魅力的なんだから」
彼女の言葉は果たして俺を褒めているのか、はたまた単なる嫌味なのか、それにしたって一向に解せないと、未だ美咲が自分を呼び出した理由がはっきりとしなかった竜之介は「一体何のつもりなんや? あの書置きはどういう意図や、自分が俺をここへ呼び出した目的は何や」と、あまりのもどかしさにとうとう直線的に美咲へ問い質した。
「あんな情緒の欠片も無い書置きで神くんを呼び出した事は謝るよ。 でも、神くんってそういう事に興味が無いと思ってたから、下手にラブレターなんて出したらそのまま捨てられちゃうかも知れないと思ったの。 なら逆に名前も用件も書いてない果たし状的な書置きだったらここまで来てくれるかなって思って、案の定神くんはあの書置きを果たし状と勘違いしてここに来てくれたから、効果はあったみたいだね」
普段と同じ声調ですらすらと語る美咲の言葉の中に不可解な単語が混じっていた事を、竜之介は聞き逃さなかった。
ラブレター。 いわゆる、恋文である。 スマートフォンなどの通信端末が爆発的に普及した今日において、最早恋文も果たし状同様、先進社会に取り残された過去の産物なのかも知れない。 しかし美咲は先ほど、言葉の中で確かにその名を語った。
「つまり、自分が俺を呼び出した理由は何なんや」
「案外鈍いんだなぁ。 見た目は大人びてるけど、そういうところはまだまだ年相応なのかな? ――私は、神くんの事が好きなんだよ。 だから私は神くんに告白する為に、神くんをここに呼び出したんだよ」
開いた口が塞がらないとはこういう顔の事を言うのだろう。 竜之介は美咲からの告白を受けて、あまりの衝撃に呆然と立ち尽くし、ぽかんと口を開けていた。 彼の心情も分からないでもない。 彼の意思では無いにしろ、日頃から女子を侍らす竜之介を見つめる美咲の冷淡ぶりを観察すれば、大抵の者は、彼女は竜之介に脈など無いと捉えるに決まっている。
当の竜之介も、美咲から冷ややかな視線を送られる度に、彼女はきっと俺に興味が無いどころか、俺の事を嫌ってさえいるのだろうと、一種の失恋にも似た諦観を心中に拵え続けていた。 しかし、今この時において彼女が告白した「あなたが好き」という愛情表現は、これまで竜之介が細々と燃やし続けていた恋慕の灯火をあっという間に炎へと炎上せしめ、彼の心を内側から燃え上がらせるには十分過ぎる熱量を持ち合わせていた。
竜之介はこの時、意中の相手から告白されたという衝撃のあまり、卒倒を覚悟したという。 全国大会の決勝戦でもこうはならなかったのだから、恋というものはとんでもない曲者だ。 だからあの時の出来事は今でも忘れる事は出来ないと彼は語る。
「何や、これは夢か? 俺は今夢を見とるんか? 自分は、俺の事嫌うとるんや無かったんか? いっつもあんなに冷たい目ぇで俺を見とったのに」
「やっぱり勘違いされてたんだなぁ。 ――好きな男の子が同じ教室で他の女子に口説かれてるトコなんて見せられたら、妬いちゃうに決まってるでしょ? あれは神くんに向けてた視線じゃないよ、周りの女子に向けてた視線なんだよ」
竜之介が忌避の目だと思い込んでいた美咲の視線は、竜之介を他の女子に取られたくなかった彼女の対抗心から来る嫉妬混じりの視線であった。 女子軍団の壁に囚われながらも、壁の隙間から届くはずの無い恋慕の情を遠目で美咲に送っていた竜之介と、奥ゆかしきを備えるが故に、毎度竜之介を囲う女子軍団へ頑なに参加せず、遠目から彼が取られまいかと日々不安に駆り立てられていた美咲。 それぞれの置かれた環境は違えど、二人は知らぬ間に惹かれ合い、互いを恋い慕い合っていたのである。




