第十六話 栄光 4
しかし全国という壁は彼の思っている以上に厚く、険しいものであった。 竜之介は初出場ながら二回戦までは順調に勝ち進んだものの、続く準々決勝、辛くも彼は敗北の味を舐める事となる。
僅差の判定負けであった。 しかし負けは負け。 竜之介は自身が敗北した理由を必死に探った――俺が出場した大会は体重別であるから、相手との体格にはさほど相違は無い。 だからそこに敗北すべき要素は無いはず。 ならば何が悪かった? 初の全国大会で力を出し切れなかったのか? いやそれも違う。 確かに俺は全力を尽くしたつもりだ。 しからば俺が負ける要素はただ一つ。 相手の実力が俺の実力を上回っていたというまでの事だ。
何だ、簡単な事じゃないか。 強くなったと思っていた俺の実力は、まだまだ全国では通用しない段階であっただけだ。 それなのに、わざわざ他の理由を付けるような真似をして、俺という奴は何て浅ましい痴れ者なのだ――そうして、敗北した真の理由を己自身に余す事無く突き付けた竜之介は、固く拳を握り締め、人目も憚らずに大粒の涙を溢した。 喧嘩や柔道でどれだけ痛い目に遭おうとも、先生や親にどれほどこっぴどく叱られようとも、一分も堪えずにけろりとしていた竜之介が人前で流した涙。 それは、彼が生まれて初めて流した悔し涙である。
勝ちたかった。
熱気溢れるこの場所この空気の中で、もっと戦いたかった。
俺の実力が足りなかった。
――数々のやるせない想いを彼は今、涙に変換して溢し続けている。
この時の事を振り返る竜之介は、我ながら情けない姿だったと己を自嘲していたが、その涙は決して無駄では無かったのだろう。 翌年、父の仕事の都合で居住していた関西から関東地方へと移転した彼は、中学生になってからも新天地で柔道を続けていた。 あの日の涙を胸に刻み、以前にも勝る血の滲む猛練習を重ねて自身を極限まで鍛え抜き、そして同年の夏開催された全国中学柔道大会において、晴れて彼は優勝という輝かしい偉業を成し遂げたのである。 優勝の吉報は、彼が通う中学校の全校集会で大々的に伝えられ、竜之介は一躍時の人となった。
この頃の彼はと言えば、日々柔道で鍛え上げた強靭な肉体は勿論の事、小学生では余り伸びなかった身長が中学に入ってから三〇センチほど伸び、中学一年生としては長身であろう一八○センチを悠に越す体躯を手に入れていて、更に小学生低学年の頃から常に柔道を通じて勝負の世界を常に味わってきた事も助けて、同級生の男子と比較すると彼は年不相応な大人びた印象を醸し出しており、持ち前の気さくな性格と関西弁のギャップも相まって、当時の女子からは常に桃色の視線を送られていたという。
しかし物心ついた頃から柔道一筋である彼にすれば、彼女達からの甘い誘惑も単なる雑音に過ぎず、事あるごとに女子に群がられては当たり障りのない態度で彼女らを体よくあしらっていたようだ。 けれども、彼も歴とした男である。 思春期真っ盛りの健全たる男子中学生である。 恋愛に興味は無い素振りを態度に出しておきながら、竜之介はこの頃、ある一人の女子生徒に対し恋心を煩っていた。 その女子生徒はクラスの中では一目置かれている存在で、筋が通らない事があれば女子は勿論、場合によっては男子にさえも臆せず立ち向かう強気な女の子である。
まったく男勝りな彼女であるが、先の性格からは想像も出来ない可憐な容貌を持ち合わせており、見た目と性格のアンマッチ具合も助けて、畏れ多い彼女に恋慕の情を抱く男子も少なくは無かったようだ。 果せるかな竜之介も例に漏れず、いつの日からか遠目で彼女を恋い慕っていたのだ。 彼女の名前は白井美咲。 彼女こそが、現在の竜之介の恋人である。
美咲もまた竜之介と同じく同級生の女子とは一線を画す大人びた雰囲気を帯びており、言動においてもその限りではない。 現に、他の女子見たく竜之介を囲うような事もせず、彼女はその風景を遠くから一瞥する度に冷淡な視線を彼に送っていたという。 彼女には毎度そうしたつんけんな態度を取られていたものだから、白井美咲は俺の事など眼中にも無く、脈などこれっぽっちもないだろうと竜之介は当初諦めの気味だったようで、柔道に関しては何を押し退けてでも最優先事項であるし、愛だ恋だに現を抜かすのはまだ早いなと、胸の内に恋慕の火は灯し続けながらも、彼から彼女に想いを告げる事は無かった。
それから時は過ぎ――蝉時雨のけたたましきも耳に久しい神無月。 全国中学柔道大会から二ヶ月ほど経過した折、彼の胸中に未だ消える事無く揺ら揺らと灯っていた恋慕の火を火傷するほどに燃え上がらせたのは、意外にも美咲その人であった。 竜之介はその日も普段と変わらぬ学校生活を送っていた。 ある休憩時間はとりわけ仲の良い友人と談笑を交わしたり、またある休憩時間には例の女子軍団に囲われたり、日々柔道の厳しい修練に臨む竜之介にとって、放課後までの時間は唯一柔道を忘れて心と体を癒せるひとときでもあった。
そうして迎えた放課後、彼の心に一波の波紋を広がらせたのは、ある一枚の書置きであった。
"放課後、焼却炉跡にて待つ"
竜之介が書置きを見つけたのは、校内の柔道場へ向かう前に訪れた、自身の下駄箱の中だった。 差出人の名も無い書置きの内容を読むや否や、彼は書置きを手の中にぐしゃりと握り潰した後、くしゃくしゃに丸まったそれをズボンのポケットの中に仕舞いこんで、目的の場所へと向かった。
歩を進める最中、彼は久しく忘れていた乱暴な血が騒いでいた事を認める――今時果し状とは時代錯誤も甚だしいが、その昔、売られた喧嘩は全て言い値で買い叩いて来た俺を知っての狼藉か。 同級生だか上級生だか知らないが、いい度胸じゃないか。 しかし今は柔道をこの身に背負う者として暴力を振るうつもりはない。 まずは口頭で牽制しつつ、それでも相手が飛び掛ってきたのなら仕方ない。 その時は怪我をさせない程度に加減しつつ、俺に喧嘩を売った事を後悔させながら寝技で制圧してやる――
どうやら彼は、下駄箱の書置きを果たし状と捉えたらしく、心の中では逸る気持ちを抑制しつつも、すっかり悪しき頃の血が全身を巡っていた竜之介は、一体そこに誰が待ち構えているのだろうかと勘定しながら、目的地が近づくにつれて感情を昂らせていた。
それから間もなく、本校舎裏の山側に位置する、過去に盛んに使用され今は活動を休止している焼却場跡へと足労した彼は、荒廃たる風景の中に、佳なる一輪の芍薬を見つけた。