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そうして君は僕を知る  作者: 琉慧
第二部 私(ぼく)を知る人、知らぬ人
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第十五話 勉学 2

 変わって、古谷さんの性質とは別の意味で驚かされたのが玲さんの僕への対応だった。 せんだっての食堂の件以来、玲さんとは学校内で一度も喋っていないし、SNSで連絡を取り合ってもおらず、移動教室の際に何度か彼女を見かけた事はあったけれど、彼女の真横を通り過ぎたにもかかわらず全く僕に気が付いていなかったり、ふと僕を意識したのかと思えば一瞥いちべつしただけで何事も無かったかのようにすれ違うなど、食堂での冷やかしが嘘のような対応にちょっと驚いている。


 恣意しい的な行動を働く嫌いのある彼女の事だから、僕の顔さえ見れば周囲の環境にはばかる事も無く冷やかしの一言二言を差し入れてくると固く確信していただけに、彼女を見かけるたびに相応の気構えを毎度段取りしていたのだけれど、僕の確信とは裏腹に至って冷然とした彼女の態度には拍子抜けと言うべきか、ひどく肩透かしを食らったような心持だった。


 だからと言って玲さんに構って欲しかったという訳ではなく、そもそも食堂の件にかんがみて、学校では彼女との接触は極力避けるべきだと僕は結論付けていた訳で、僕が伝えるまでもなく彼女の方から僕の望む態度を取ってくれたのだから逆に有りがたいとさえ思わなければならないはずなのに、いざ彼女に素っ気無い態度を取られてみると、何故だか言葉にし様の無い寂しさを感じてしまう。 そして、それはどうにも僕自身にすら説明のつかない感覚であった。


 しかし、先の不明瞭な感覚について一つだけ判然はっきりとしている事はある。 僕が彼女に好意を持ってしまったが故にこうした不自然な感覚をいだいてしまったのではないという事だ。 僕にとって玲さんは大切な存在であるという事は否定もしない。 けれど、彼女が僕に与えているのはあくまで厚意であって好意ではなく、また僕も彼女の厚意を受け取ってはいるけれども、彼女に対して好意を抱いている訳では無い。


 ――確かに彼女は魅力的だ。 仮にぼくとして彼女と接し続ければ、いずれぼくは彼女に恋心を抱くかも知れない。 けれど、それだけは出来ない。 ぼくが彼女の優しさに付けこんで気持ちを伝えて、万が一にも彼女が僕の好意を受け取ってしまったら、僕は玲さんを『当事者』にしてしまうからだ。


 仮に僕と玲さんが恋仲になったとしても、世間は僕たちを心より祝福してくれるだろう。 事情を知らない人々からすれば僕は男で玲さんは女なのだから当然だ。 仲むつまじい恋仲同士だと誰もが信じ、僕たちの関係に懐疑の目を光らせる素振りすら見せないに違いない。 しかしこの世でただ一人、彼女の心には残り続ける。 自分が、トランスジェンダーである僕と恋仲になってしまったのだという事実が。

 心の広い玲さんの事だから「そんなの気にしてるのは君だけだって」と笑い飛ばしてくれるかも知れないけれども、およそ劣等感というものは後年にわたってじわじわと心を侵食していくものなのだ。


 勢いに任せて決定した事柄は、理念、理屈、損得勘定という気持ちのブレーキを外している状態がゆえに、序盤の滑り出しだけ(・・)は好調に見える。 航路図も羅針盤コンパスも投げ捨て、その場の勢いのみで出航した船は「何とかなるさ」という羽のように軽い楽観の風が後方から吹き去り、順風じゅんぷう満帆まんぱんとはこの事かと言わんばかりにぐいぐいと船を押し進めてゆく。 この時ばかりは古今東西老若男女あらゆる人が七つの海を股に掛ける一端いっぱしの航海士になった気味で「時は晴天、世は円転。 一つ世界に円を描いてみせよう」などと、波を裂き飛沫しぶき舞う船首に踏ん反り返りながら脂下やにさがった調子でうそぶくものなのだ。 しかし、いつまでも行き当たりばったりの都合風が帆を膨らませてくれる筈も無く、推力を無くした船は次第に勢いを落としてゆく。


 時に荒天、世は暗転。 航海士は今になって焦り出す。 今更舵を取ろうにも、かつて吹いた風はく、虚しく切られた()舵は、徒労というに相違無い。 進む事も引き返す事も出来ぬ三六〇度見渡す限り水平線の大海原おおうなばらにただ一人取り残された航海士は、ここに来て後悔士(・・・)に転職する。 何故船を出す前に熟考しなかったのか、どうして軽薄で安直な判断のみで船を出してしまったのかと。 そうして士は空の青きに辟易へきえきし、海の広きに絶望する。 帆は二度と風を受ける事も無く、船は士を永遠に束縛する牢獄と化し、士は死の間際にこう呟く「嗚呼、私はまったく馬鹿げた真似をしてしまった」と。 士は死んだのではない、後悔に殺されたのである。


 ――そうなるであろう事は判然としていたからこそ僕は、先述の悔悟かいごを玲さんにいだかせてしまう事を恐れていたのだ。 そしてこの懸念は何も玲さんにのみ限った事では無く、僕がぼくとして女性に好意をいだかんとするたびただの一つの例外も無く付きまとう、僕にとって懸念とは名ばかりの呪いそのものなのだ。


 だからこそ僕は、男になろうとしている。 僕が男になる事さえ出来れば晴れてその呪いは僕の身からはらわれ、僕は一人の男として何の気遣きづかいも無く女性に恋慕れんぼの情を抱く事が出来るのだ。 その為に僕は今、手探りで男というものを探している。 いずれまた玲さんの助力を仰がなければならない場面も出てくるだろう。 その時は不明瞭な感情はさておき、僕は素直に彼女を頼るつもりでいる。 無論、一人の理解者として。


 様々な思想を揺らしつつ、今日も電車は僕を運ぶ。 目的地へは時間通りに。

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