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そうして君は僕を知る  作者: 琉慧
第二部 私(ぼく)を知る人、知らぬ人
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第十四話 自発 1

 何故私は、あの場に居残ってしまったのだろう。


"私も、ちょっと興味あります"

 違う。 本当は確認したかっただけなんだ、彼と先輩との関係を。

 けれど、浅はかな好奇心は私を完膚無きまでに打ちのめした。


 先輩と対峙した私は、さながら陸に打ち上げられた無力で哀れな魚だ。 いくら無作法に影を落とされてもろくに呼吸する事すらままならず、声にすら成りやしないのにぱくぱくと口を動かして今にも窒息して死に絶えそうな私の有様を、あの人は哀れみの目で見下していた。


 だから、居ても経っても居られなくなった私は、呼吸を求めてみじめにあの場から逃げ去り、一心不乱に走って、走って、走って、気が付けば本校舎一階の昇降口前まで辿り着いていた。 ただでさえ動揺していたところにあまり得意でない駆け足を重ねてしまったものだから、胸が裂けるように苦しい。 これはきっと酸素不足による動悸のせいだ。


 ――本当にそれだけのせい? 違う。 この苦しみは、恋の苦しみだ。

 あの時、私はきっと嫉妬していた。 先輩のあの距離が、羨ましかったんだ。


 私が持ちるなけなしの勇気を振り絞ってようやく縮める事の出来た彼との距離を、あの人はいとも容易たやすく光速度で追い抜いたばかりか、今にも彼に接触しそうな距離を危なげにふらふらと飛び回って、彼をすっかり翻弄していた。


 昨日、先輩と彼との間にどのような交流があったのかは分からない。 だけど、ただ一つだけ思い知らされた事がある。 それは、私が呑気に『特等席』で彼を眺めているだけでは、彼は私の事を意識してくれないだろうという事だ。


 多分、いま彼の心に一番接近しているのは、あの先輩だ。 まさか昨日今日の短期間にここまで距離を離されようとは誰が思うものか。 私などは幾光年離されているのかすらも定かじゃない。


"――なんて、冗談冗談っ! 君の王子様を横から取っちゃったら可哀想だし。 まぁそもそも私、年下とか興味ないから安心していいよ"


 そしてあれは挑発だ。 興味が無い素振りを見せておいて、その気になればいつでも彼を奪えるぞという宣戦布告だ。 挑まれたからには決して逃げたくない。 分不相応な行為は身を焦がす? そんな事、知るものか。 その程度で燃え尽きてしまうような気持ちならばいくらでも丸焦げになってしまえばいい。 私が焦がれたいのは恋だけだ――けれど、はやっているのは気持ちだけで、依然私は特等席から腰を上げる事が出来ないでいる。 今すぐに立ち上がれと何度命令したって、まるで言う事を聞かない。


 そもそも、人が身体を動かすには理由が必要だ。 特定の場所へ向かう為に足を運ぶ。 扉の向こうへ行きたいから扉を手で開く。 いずれの理由にも目的があり、それを果たす為に心と身体は一致し、その時初めて目的に向かって行動を起こせるのだ。


 けれど、目的を阻害する何かが発生したらどうなるだろう。

 例えば、その場所へ行きたいとは思うけれど、無理に行く必要は無い。

 あるいは、開けようとする扉の先には、恐ろしいものが待ち受けている。


 前者を妥協、後者を臆病とするならば、私は今まさにその二つに邪魔されて、身動きが取れなくなっていたのだ。 昨日の告白からまだ数日と経っていないのだから何も焦る必要は無いという妥協と、その妥協を押し通したところで彼に嫌われてしまうかも知れないという臆病は、私が立ち上がる事を許さず、特等席へと雁字がんじがらめにしている。


 気持ちだけでは行動を起こせないのは知っているけれど、何もその真理に今辿り着いた訳じゃない。 あの場から一目散に逃げ出してしまったのが最たる例で、私は昔から先に述べた二つの虫に寄生され、行動さえも操られてしまっているのだ。 きっと今回も私はこのまま妥協し続け、臆病に身をすくませながら何も手に入れる事も出来ずに全てを諦めるに違いない。 最早諦観の境地とも言える断定は、私を卑屈の檻へと閉じ込めた。


「おーい千佳ちゃーん」


 すっかり落ち込んだ私の名前を呼んだのは、三郎太くんだった。 どうやら食堂から私の後を追ってきたらしい。 でもつい先程、自分勝手に食堂から逃げてしまった後だから、どうにも顔を合わせ辛い。 だから私は名前を呼ばれたにもかかわらず、振り向きもせずにその場にうつむき加減に立ちほうけていた。 彼の足音は段々私に近づき、足音は私の後方でぴたりと止んだ。 そして彼は語り始めた。


「まぁ、何ていうか、その、俺もびっくりしたわ。 ユキちゃんがあんなキレイな人連れてくるもんだからなぁ。 でも、ユキちゃんって優しいからさ、あの先輩に奢ってたのも下心とかじゃなくて単なる厚意に対するお礼みたいなもんだと思うし、本人もあの先輩が俺らの方に付いて来るのは予想外みたいな感じだったし、悪気は無かったと思うんだ。 だからユキちゃんの事、あんまり悪く思わないでやってくれねーかな」


「そんな、私はユキくんを悪く言うつもりなんて」


 じゃあ私は一体、何に対してむしゃくしゃしていたのだろう。 ユキくんでない事は確かだ。 無論、私の事を気にかけてくれている三郎太くんでもない。 だとすると、あの先輩? ――それも違う。

 いや、本当は分かっている。 私にとって一番身近な存在を見紛みまごう筈が無いにもかかわらず、私は意固地になって真実から目を逸らし、かたくなに認めようとしないだけなのだ。 それは、他の誰でもない私だ。 物怖ものおじしてユキくんの前で未だに自分というものを表せない私自身だ。 そうして私は三郎太くんの方を振り向いた。 いつも明るい彼に似合わず、ひどく心配そうな顔をのぞかせている。


「三郎太くんは私の告白の事、知ってるんだよね」

「ああ、一応ユキちゃんから一通りは聞いた」

「……私ってずるいですよね。 あの時の私は、ユキくんの事を好きでいられれば満足だって言い切ったはずなのに、今日、ユキくんがあの先輩とすごく仲良さそうにしているのを見て、嫉妬してました。 ユキくんが誰を好きになろうと私には関係ない筈なのに、こんな気持ち、ルール違反ですよね」


 今更隠したところでどうにかなる訳でも無く、私は彼に今の心境をありのまま語った。 すると彼はどこか困った様子で後頭部辺りを手でわしゃわしゃしながら、何かを考えている風な素振りを見せた。


「んー、実は俺さ、普段は彼女欲しい彼女欲しいってユキちゃんとかにうるさいほど言ってるんだけど、未だに誰かを本気で好きになった事が無いんだわ。 そんな訳で、恋する気持ちもいまいち分かんねーから千佳ちゃんが悩んでる悩みにもうまい返しの一つも浮かばねーし、慰めっつったらおかしいかも知れねーけど、千佳ちゃんを励ます言葉も見当たらねーし、正直すげー困ってる。 でもさ、一つだけ言える事はある。 恋愛の進め方にそもそもルールなんて無いっしょ?」


「……え?」

 とくん。 と、私の胸に馴染みの無い鼓動が一つ、鳴り響いた。


「いや、そりゃあ浮気とかはダメに決まってるし、相手をその気にさせといて本当は違う人が好きでしたー、とかはどうかなって思うけど、なんつーのかな、人を好きになる過程っつーか、その道のりの途中でなら、道筋に逸れない程度に多少の進路変更ぐらいは構わないんじゃねーの? 千佳ちゃんは俺と違って気が真面目そうだから、もしかしたらそういうのが許せないタイプなのかも知れねーけど。 まぁ、あれだ。 経緯はどうあれ、ユキちゃんを好きになった自分を信じろって事。 今ユキちゃんが千佳ちゃんの事をどう思ってるかは分かんねーけど、俺は千佳ちゃんの事応援してるからさ。 だから、そこまで落ち込む事ないって」


 恋愛の進め方にルールは無い――

 ユキくんを好きになった自分を信じろ――


 彼からの不器用な言葉は、不思議と私の心の底にまで響き渡って、知らずの内に私の中のむしゃくしゃを吹き飛ばし、卑屈の檻に閉じ篭った私を外から引っ張り出してくれた。


「そう、だよね。 勝手な想像で落ち込んでる暇なんて無いんだよね。 ありがとう、三郎太くん。 何だか元気が出ました。 ……三郎太くんって、優しいですね」


「いやいや! そんな真顔で優しいとか言われると照れるし! あとこんなクサい事言ったのがユキちゃんとかリュウに知れたらまた絶対からかわれるから、この事は俺と千佳ちゃんだけの秘密な!」


「はい、二人だけの秘密です」


 少しうろたえ気味な三郎太くんと結んだ約束。 それはほんの些細な秘密の共有。 弱みを握った気はしない。 でもいつかみんなの前でその話題になったら、私は私だけが知る彼の秘密を胸の内にしたためて一人平気な顔をして充足感にひたっていよう。


 少し苦いと思ったら、今度はちょっぴり酸っぱくて、最後はほんのり甘やかな、とても言葉では表現し切れない曖昧な味を、私は今確かに噛み締めている。 これが青春というモノの味であるとするならば、それは少し珍味だなと、妙な後味を覚えた味蕾みらいを疑いながら、私は三郎太くんと共に教室へと戻った。

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