エピローグ
「おとうさん、これしよー」
「ん、しゃぼん玉? いいよ。 明人もやる?」
「やるやる!」
前回の鈴木家と神家の訪問から早や半年以上過ぎた水無月の休日。 自宅のリビングで明人の遊び相手をしている時に美幸が僕の元に何かを持ってきた。 それはしゃぼん玉道具一式だった。 僕は南側の引き込み窓を開け放った上で子供たちと一緒に縁側へと腰を下ろした。 僕は子供たちに挟まれるよう真ん中に座った。
家の南には、横に長い三〇平米ほどの庭がある。 家を建てた当初はとても平坦とは言えない土壌に雑草が生い茂っている、いわゆる荒地だったけれども、僕の休日などにこつこつと土地を均し、庭として機能するよう動き始めて五年、ようやく満足の行く庭が完成した。
僕らの家は丘の上にあるから、他の敷地とやや高低差のある庭の周囲には安全対策としてコンクリートブロックを積んだ上でフェンスを設置し、庭は子供たちが適度に走り回れる程度には広々としている。 庭の一部には花壇としてのスペースも備え、庭の隅には水道も通して利便性も良く、子供たちの感受性などを高める為に子供たちと一緒に様々な花を育てている。 今はちょうど、玲さんが植えたいと言って去年の秋頃に植えたユリ科のカサブランカが都合三本ほど開花している。
この花は『百合の女王』の二つ名を冠しており、通常の百合と比べて花弁が大きく、同じ茎から花柄を伸ばして三輪ほど淑やかかつ威風堂々と白の花弁を満開にさせている様は、まさにその二つ名に恥じない形をしていると言っても良い。
玲さんが何故この花を植えたいなどと言ったのかは分からないけれども、なるほどこれまで花にとりわけ興味を持たなかった僕でさえも花の美しさに触れられたような、そうした不思議な雰囲気を持つ花だったから、きっとこれまでの人生のどこかでこの花を見かけていて、僕や子供たちにもその花の素晴らしさを知ってもらいたかったのだろう。 子供たちの為に始めたガーデニングだったけれど、今では僕もすっかり花の美しさの虜だ。
そうして、カサブランカのどこか気品さを漂わせる甘い香りを鼻腔で楽しみつつ、僕は美幸の持ってきたしゃぼん玉道具をセットし、使用できる状態にした。 セットと言っても、しゃぼん液の入っている細長の器の蓋を開け、その中に吹き具を入れ込んで液を仕込んだだけだけれど。
「これを吹けば出来るよ、最初はどっちがやる?」
「ぼくがやる!」
真っ先に手を挙げたのは明人だった。
「美幸、先に明人がするけどいい?」
「うん、私はおねえちゃんだからね、先に明人にさせてあげるんだよ」
「そっか、美幸はお姉ちゃんでしっかりしてるね」と僕は美幸の頭を撫でた。
「えへへ」
美幸は満悦そうに笑った。 近ごろは明人の姉という自覚が芽生えてきたのか、美幸はやたらと『明人の姉』という立場を使いたがる。 その立場を使用する事によって、僕や玲さんに褒められる事を望んでいるだけなのかもしれないけれど、身体の成長だけでなく、そうした人間性の成長も感じられるのは親冥利に尽きるというもので、これから更にどういった方向に成長するのかが楽しみだ。
「――っ?! ぺっぺっ! うあー、にがいー!」
そうこうしている内に、明人が何やらしゃぼん玉の作成に失敗したようで、口の中に入ったらしいしゃぼん液を必死に口から吐き出している。
「あーあー、何してるの明人。 どうやって吹いてたの?」
「えっと、こうやって、上に向けて」と説明しつつ、明人はやや顔を上に向けながら吹き具を吹く動作をしてみせた。
「あぁ、それはそうなっちゃうよ。 この棒をあんまり傾けたら口のほうに液が垂れてくるから、顔を真っすぐにして棒も真っすぐ持ったまましないと」
僕は明人に何故失敗したのかを説きつつ、正しい使用方法を説明した。
「わかった! じゃあもういっかい!」
「うん。 ――はい、これでもう一回吹いてみて」
僕は液入りの器に吹き具を入れ込んだあと、明人の口元へそれを水平に持っていき、出来る限りの補助をした。 明人はそのまま吹き具に息を放った。 すると吹き具の口から様々な大きさのしゃぼん玉が生成され、庭近くの空間をふわふわと漂っていた。
「わー、できたできた! きれい!」
自身でしゃぼん玉を生成出来た事が嬉しかったのか、明人は嬉々として笑みを浮かべている。
「おとうさん、次は美幸の番ー」
いよいよしびれを切らしたのか、美幸が私にもやらせてくれと催促してくる。 美幸は一人でもしゃぼん玉を作れるから、僕は美幸に液入りの器と吹き具を渡した。 それから手慣れた手つきで器に吹き具を入れ込んで液を付け、ちゃんと正しい姿勢で吹き具を吹き、たくさんのしゃぼん玉を生成していた。
「おー、上手上手。 さすが美幸お姉ちゃん、しゃぼん玉を作るのもうまいね」
「でしょでしょ? 幼稚園でも私が一番うまくしゃぼん玉をとばせるんだから!」と美幸は得意そうに言った。
「おねえちゃん、次ぼくの番ー」
「はいはい、次はちゃんとおとうさんの言った通りしないとだめだよ」
そう言って、美幸は僕の脚の上を経由して明人にしゃぼん玉道具一式を手渡した。 吹き具にしゃぼん液を付けようかと僕が明人に言うと「ううん、一人で出来るように練習する!」と言って、覚束ない手つきで液の入った器の中に吹き具を入れ込んでいた。 その動作が何ともまた愛らしく、僕は親馬鹿極まりないにやつきを溢してしまった。 それから明人は先に僕の教えた通り吹き具を水平にして、うまくしゃぼん玉を生成していた。
「ほら、できたできた!」
一人でしゃぼん玉を作る事が出来て嬉しかったのか、明人は全身を動かしながらうきうきしている。
「明人も上手だね。 じゃあ次は僕にもやらせてくれる?」
「うん! いいよ!」と明人が僕にしゃぼん玉道具一式を手渡してきた。
「おとうさん、おっきいしゃぼん玉作ってー」
「はは、まかせて」
美幸にそうせがまれつつ、僕はしゃぼん玉を生成し始めた。 たちまち庭の周囲には、大きいものから小さいものまで様々なしゃぼん玉の数々が浮かび始めた。 そうして、太陽の光に照らされ多種多様で精彩な色を覗かせるしゃぼん玉の一つ一つに、僕は在りし日の高校時代の思い出を見た。
――青春とは、しゃぼん玉に似ている。 おおきいのもあれば、ちいさいのもあって、その時々の見る時間帯や角度によって見えてくるものも違う。 たちまち地面に落ちて壊れる儚きものもあれば、空高くまで昇ってゆく力強いものもある。
そうして、時にはしゃぼん玉の生成に失敗し、しゃぼん液が口の中に入る事もある。 当然苦い。 ぺっぺと吐き出さずには居られない苦さだ。 しかしこれこそが、この苦さこそが、青春の苦さなのだ。
風の吹くままあちらこちら、時にふわつき時に落ちて時に昇り、知らずのうちに壊れては、またふわつかせ、時に失敗して苦さを知る。 これだ、これが尊いのだ。 だから、大人になって、いつしか結婚し、子供を持つようになった時、青春という容の無い青臭くふわついた感覚をふいと思い出したくなったのなら、子供と一緒にしゃぼん玉を飛ばすと良い。 きっとあの光景を、あの匂いを、あの苦さを、脳裏に思い起こす事が出来るだろう。
「ユキー、コーヒー入ったよー」
――ノスタルジーな気分にどっぷり浸っていたところに、リビングのテーブルの方から玲さんの僕を呼ぶ声が聞こえてくる。
「うん、わかった。 美幸と明人はまだしゃぼん玉やっとく?」
「「やっとく!」」
「じゃあ二人で順番守って喧嘩しないようにね」
「「はーいっ」」
そう言い残して、僕は縁側から玲さんの居るテーブルへと移動し「お待たせ」と断りつつ椅子に座った。 玲さんは「別に待ってないよ」と言いながら、僕のテーブルの目の前にコーヒーの入ったカップを置いてくれた。
「ありがと。 玲さんと知り合い始めて間もない頃は少しでも時間に遅れるとお小言が飛んで来たからね」
「また昔の話を引っ張ってきたねユキも。 もしかして結構根に持ってたりした?」
「ううん。 ただ、今思い返すと、ああいうのも青春の一部だったんだろうなって思っただけ」
そう言い終えて、僕は湯気立つコーヒーを一啜りした。 まだ少し熱い。
「なるほどね。 確かに青春なんてのはその時には全然分かんないものだからねぇ」
玲さんはテーブルに肘を凭せ掛け頬杖を付き、庭の方を見ながら物思いに耽ったかのよう雰囲気を覗かせつつそう言った。
「そうそう。 でも、こういう話をしみじみとしちゃうほど、僕たちもずいぶん歳を取ったよね」
「ほんとね。 ユキも私が年々おばさんに近づいてて、げんなりしてるんじゃない?」
「そんな事ないよ。 玲さんは今でも十分若くて綺麗でかわいいから」
「なになに、褒めたって何も出ないよ? まぁお世辞でも嬉しいけど」
「お世辞じゃないよ。 本心だよ」
「……あのさ」
「うん」
「ユキはいつまで経っても生意気なままだね」
「それはそうだよ。 玲さんの前では、僕は僕のままだから」
「……」
「……」
「「ふふっ」」
僕と玲さんは顔を見合わせて笑い合った。
これからますます歳を取って、子供が成人して、目に見えた老化が始まって、白髪が増えて、皴が顕著になって、互いにおじいちゃん、おばあちゃんと呼ばれる年齢になったとしても、僕はこうして玲さんと向き合って、何でもない事を言い合って、目尻に目いっぱい皴を寄せ、心の底から笑い続けていたい。
死が二人を分つまで、いつまでも、いつまでも、
最後まで読んで頂きありがとうございます。
二年半に亘る執筆の末、110万字分の物語を無事書き切れた事を嬉しく思います。
作品に対するあとがきは別途活動報告の方に書く予定です。
それでは、長期間の連載に付き合って頂けた読者の方、
本当にありがとうございました。




