十年の時を経て
「双葉お姉ちゃーん、そろそろ出ないと本当遅れるよー?」
『待って待ってっ千佳っ! もう終わるからっ!』
――私、古谷千佳が鈴木の姓に変わって三郎太くんと結婚生活を送り始めてからちょうど一年。 今日は、私の高校時代の親友であるユキくんと、私の高校時代の先輩である玲先輩の結婚式の日だ。
私たちと同じく式の時期が梅雨時だったから、前日まで天候の具合が危ぶまれていたけれど、今日はじめじめとした梅雨を吹き飛ばすかの如き、見渡す限り雲一つない快晴だった。 きっと天も二人の門出を祝福してくれたのだろうと思った。
そして今まさに私たちはユキくんと玲先輩の結婚式に出席するため、式の執り行われるユキくんの地元の結婚式場へ向かおうとしていた――しかし、私の義姉にあたる双葉お姉ちゃんを迎えに三郎太くんの運転する車で彼の実家まで来ていたのだけれど、彼女が寝坊をして出発が遅れていたのだ。
「ったく姉貴のやつ。 そんなだから未だに結婚できねーんだよ」と、鈴木家の目の前に止めていた白のワンボックスカーの運転席から出てきて玄関前に居た私の傍に近寄り、開口一番そう辛辣に言い切ったのは黒のスーツ姿の三郎太くんだった。 双葉お姉ちゃんの方から彼に迎えの依頼をしていただけに、三郎太くんはかなりご立腹のようだ。 眉間に皴を寄せて不満げな顔を覗かせている。
「まぁまぁ三郎太くん。 まだ十一時前だし、間に合うのは間に合うんでしょ?」
今回は寝坊をした双葉お姉ちゃんが悪いからあまり擁護も出来ないけれど、かと言って三郎太くんの辛辣な物言いに賛同する訳にもいかなかったから、私は彼の怒りを宥める事しか出来なかった。
「おう、式は十三時からだしな。 多少混んでても向こうまで一時間半ってところだから間に合うのは間に合うよ。 最悪姉貴一人電車で向かわせて向こうの駅で拾う手もあったけど、それはそれで面倒だし、さすがにちょっとかわいそうだからな」
何だかんだ言いつつも、三郎太くんが双葉お姉ちゃんの事を彼なりに大事に思っている事は知っている。 先の辛辣な発言も、彼女の将来を思うが故に出た叱咤みたいなものだろう。
「まぁ何にせよ、先にリュウと真衣ちゃん拾って来てて良かったぜ。 先にこっちに来てたら姉貴一人だけ電車パターンだったわマジで」
三郎太くんが言ったよう、車の中には既に神くんと真衣が乗っている。
私と三郎太くんの住んでいるアパートを出る前までは一番距離の近い双葉お姉ちゃんから迎えに行こうとしていたのだけれど、車を発進させる直前「今から迎えに行くっていう俺からのメッセまだ未読だし、何か姉貴寝坊してそうだから先にリュウと真衣ちゃん迎えに行くわ」と三郎太くんは予定を変更して先に彼らを迎えに行っていて、そうして最後に双葉お姉ちゃんを迎えに来て、三郎太くんの悪い予感が果たして的中していた事を知ったのだ。
それから数分後にシャンパンベージュ色のワンピースドレスに黒のジャケットを着こなした双葉お姉ちゃんが玄関前に現れて、ようように私たちは地元を出発し、ユキくんの地元へと向かった。
「――そりゃあ姉貴が悪いわ。 兄貴に酒で敵うはずないだろ」
「んな事言ったって、一哉も三十超えてるんだからちょっとくらいお酒が弱くなったって思うじゃん?」
「いやいや! 去年の実家の新年会の時だって度数五〇パー超えてる三〇〇ミリリットルのウィスキーのボトル一本丸々一人で飲み干しても顔色一つ変わらなかったんだぜあの人。 姉貴如きが勝てる筈ねーだろ。 つーか明日結婚式だってのに兄貴に酒勝負なんて持ち掛ける姉貴が一番悪ぃぜ」
車が高速道路を走り始めてから間もなく始まったのは、双葉お姉ちゃんの寝坊の件についてだった。 常に真正面から景色を見ていないと車酔いするという体質を持つ都合で双葉お姉ちゃんは助手席に乗っていたから、運転している三郎太くんと隣同士でわぁわぁ言い合っていた。
ちなみに一哉というのは鈴木家の長男で、双葉お姉ちゃんの四つ上、三郎太くんや私の六つ上にあたる彼らのお兄さんであり、私の義兄だ。 既婚者で、子供も二人いる。 奇しくも私の姉と同い年だ。
私も今年の正月時の鈴木家の親戚の集いの際に初めて一哉お兄さんと対面して、身長が一八〇を悠に超えており、こんな事を言ってしまうと二人に怒られてしまうけれど、三郎太くんや双葉お姉ちゃんのような慌ただしさというか喧騒さがまるで無く、とても落ち着いた佇まいを持ち合わせていて、どこか有名人のような雰囲気を覗かせる身形のきちんとした品性正しい人というイメージだった。
その一哉お兄さんが何でも昨日の夕方、鈴木家の実家にひょっこり現れて、良い酒が手に入ったから飲もうじゃないかと家族に酒を振舞い、その内に双葉お姉ちゃんが一哉お兄さんにどちらが先に酔い潰れるかの勝負を挑み、双葉お姉ちゃんも決してお酒には弱くない性質なのだけれど、敢え無く敗北したという話だった。 寝坊の原因はそれらしい。
そしてこれも以前より聞いていた話だったけれど、一哉お兄さんはお酒を嗜み始めた頃からめっぽうお酒に強かったらしく、誰も彼の酩酊したところを見た事が無いほどの酒豪だったという。
私は小さなグラス一杯のお酒を飲んだだけで顔が真っ赤になってふらふらになってしまうほどお酒に弱いから、慣れなのか、はたまた体質なのか、いずれにせよ同じ人間のはずなのに、お酒の強い弱いが人によってこれほどまでに違うのは何故だろうと不思議に思った。
「いやー、でもマジで一哉はヤバいよ。 ありゃ完全にバッカスの生まれ変わりだよ、ってお母さんが言ってた」と双葉お姉ちゃんが感慨深そうに言った。 私は右隣に座っていた神くんに「バッカスって何?」と訊ねた。 「確かどっかの神話の酒の神さんか何かやったんちゃうかな」と彼は朧気に答えた。
「そうそう。 神くんの言った通りギリシャ神話のワインの神様だって」と、私の左隣に座っていた真衣がその語句を聞いてからたちまち検索していたらしく、スマートフォン片手にそう言った。 よもや一哉お兄さんもこんなところで神に例えられているとは夢にも思わないだろう。
「そういやリュウ、今日竜馬は?」
「あぁ、まだ式に出れるほど大人しぃないから美咲と一緒に留守番や。 さすがに式場走り回られたら優紀らに迷惑掛かってまうからな」
竜馬というのは神くんの子供の名前だ。 今年の九月でもう三歳になるそうで、良くも悪くも彼の血を引いたのか、まだ会話などは覚束ないものの、毎日体力が尽きるまで家の中を走り回っているらしい。
「そうか。 でも竜馬も今年の九月で三歳とか時間経つの早ぇよなぁ。 初めて赤ん坊の竜馬を腕に抱いたのが一か月前ぐらいの事のように感じるぜ」
私と三郎太くんは結婚する以前より神夫妻との交流があり、度々彼らに招かれて彼らの住む神くんの実家にお邪魔していて、その時に竜馬くんとも勿論顔を合わせていたのだ。 当時はコミュニケーションも儘ならなかったあの小さな小さな赤ん坊が、今ではすっかり元気いっぱいに動き回るほどに成長したのだと思うと、三郎太くんの言うところの感覚も分からないでもない。
実際にはもう三年が経とうとしているのに、竜馬くんが赤ん坊の時の点と、今現在の竜馬くんの点を繋ぎ合わせても、到底三年という長い年月を感じさせないほどに、点と点で結び合わせた線は甚だ短いように思われる。
子供の頃の一年と、大人になってからの一年は過ぎる時間の早さが違うという話を聞いた事があったけれど、私や三郎太くんが今まさにそうした感覚を味わっているのだと思うと、私たちもすっかり大人になったのだなと少し誇らしくもあり、また、子供の頃の青春時代を思い返してちょっぴり感傷的になったりもした。
それから、美咲さんが妊娠三か月目だという事を知ったり、神くんがそろそろ竜馬に何かしらの運動関連の習い事をさせたいけれど何がいいだろうと私たちに聞いてきたり、しばらくは神家族の話題で盛り上がった。 ほどほどに会話の熱も治まったころ、真衣が思い出したかのよう「でも、綾瀬くんもいよいよ結婚かぁ」と、何だか感慨深そうに言った。
「どうしたの真衣。 えらくしみじみしちゃって」
普段より暗い真衣の態度を少し心配した私は、真衣に訊ねた。
「うんー。 何か無性に寂しいんだよね」
「なになに? もしかして真衣、ユキくんの事好きだったとか?」
真衣の口から『ユキくんが結婚して寂しい』などという意外な言葉が出たから、私もついからかい気味にそう訊いてしまった。
「うん、結構好きだった」
「……えっ」
またもや真衣の口から偽りの無い真っすぐな言葉が出て、途端に車内はしんと静まり返った。
「まぁ、好きって言ってもほんと一時的な感情だったし、もちろん今は二人の結婚を心からお祝いしたい気持ちでいっぱいだけどね」
この恋は既に終わったものだとすっぱり断った上で、真衣はユキくんと玲先輩の結婚を心底祝福していると言い切った。
「ほぉ、真衣ちゃんが優紀の事好きやったんは意外やな、いつん時に好きやったんや?」と歯に衣着せぬ勢いで真衣に訊ねたのは神くんだった。 彼はこういう時に割とストレートに物事を訊ねてしまう性質があるから、両者の間に挟まれていた私はちょっとどきっとさせられた。
「いつ頃だったかなぁ。 多分、高校一年の時の二学期ごろに綾瀬くんが私の前の席になった時くらいだったかな。 ほら、体育大会が近かった頃」
真衣は当時を思い出しつつそう答えた。
「あぁ、あの時か。 確かにあの頃真衣ちゃんとユキちゃん結構仲良さそうだったもんな」と運転しながら言ったのは三郎太くんだった。
「うん。 あのころ勉強で分からないところを綾瀬くんから結構教えてもらってて、私が勉強教えてもらったお礼として食堂でジュース奢るよって言っても『そんなの要らないよ、僕が教える事で平塚さんの勉強の理解度が高まってくれるだけで嬉しいから』なんて言われてさ。 何でこの人はこんなに優しいんだろって思ってるうちに好きになっちゃったみたい」
真衣のユキくんが好きだったと語った時期――それは私が真衣とユキくんの中を遠目で嫉妬していた頃の話だ。 あの時にそうしたやりとりを交わしていたとは今日まで知らなかったから、今でこそその事実を冷静に受け流す事が出来るけれど、当時の私がその事実を耳にしていたら、私は一体どういった感情を心に拵えてしまっていただろうか――いや、よそう。
当時の私の稚拙な心をわざわざ呼び覚まし、真衣を貶めたりはしたくない。 だからこの話は、十年前に過ぎ去った遠い遠い過去の話として、当時の幼い私としてではなく、大人になった私として聞こう。
「でも千佳が綾瀬くんの事を好きなのは知ってたし、私が二人の間に入っちゃったらややこしい事になるのは分かってたから、私はその気持ちとずっと向き合わないようにしてたんだ。 だからこそ、千佳がサブくんと付き合うって話を聞いた時は真っ先に怒りを感じちゃったし、それ以上に綾瀬くんが可哀相で、せめて私だけでも味方してあげなくちゃと思ったんだけど私も綾瀬くんから避けられちゃって、あの時はほんと辛かったなぁ」
「正直あん時はもう二度と俺ら五人で集まれんと思とったわ」と意外にも弱気な発言をしたのは神くんだった。 確かあの頃の彼は三郎太くんに『早くユキくんと仲直りして、五人が集まれるようにしろ』と未来を見据えた発破を掛けていた覚えがあるけれど、彼は彼なりにあの状況を絶望視していたようだ。
こうして当時の彼らの心境を聞いていると、玲先輩のユキくんへの献身があったとはいえ、私たち五人がまた揃って笑い合えるようになったのは本当に奇跡だったのかも知れない。 その関係が高校を卒業以降もずっと続いているのだと思うだけで力をもらえる。 私にとって彼らとの関係はそれだけ特別なのだ。
「うん、私もそう思ってた。 だから余計に、あの状態の綾瀬くんを立ち直らせたり、千佳が根回ししてたとは言え結果的に私たち五人の仲を取り持った玲先輩には敵わないなって思っちゃったんだけどね」と真衣は語った。 あの時から真衣は玲先輩に一目置いていたようだ。
「何つーかな、ユキちゃんと玲さん。 あの二人の間には誰も割って入れない特別な雰囲気が当時からあったと思うわ」と三郎太くんが確信的に言った。
「あ、サブローとかでもそう思ってたんだ。 まぁ当時から玲は綾瀬くんのこと特別視してたみたいだからねぇ。 二人とも性格的に結構似た者同士だったから、その辺でフィーリングがバッチリ合ってたんだろうなぁ」
自分の関わりの無い話題が続いてしばし口を閉じていた双葉お姉ちゃんが、この話題に初めて口を挟んだ。
「確かに、優紀が言うにはあの人と付き合い始めたきっかけは『向こうの一方的な一目惚れからの猛アタック』やったらしいし、よっぽど馬が合うたんやろな」と、神くんも二人の仲を特別なものだと認めている。
それにしても、みんながみんなユキくんと玲先輩の仲を特別なものだと認識していてちょっと驚いた。 それは玲先輩がユキくんを特別視するのは当然で、玲先輩は私と同じく、本当のユキくんを知る数少ない一人であり、ユキくんが自身の性質のせいで中学時代に凄絶な差別を受けてひどく傷ついた事を知っているからこそ、彼が二度とそうした辛い目に遭わないよう彼を傍で見守り続けていた。 きっとその溢れ出んばかりの玲先輩の献身さが、みんなの瞳に映じたに違いない。
それから私たちはユキくんと玲先輩についての話題で盛り上がった。 その話題の終わり頃に真衣が「私が綾瀬くんの事を好きだった話、あの二人には内緒だからねっ!」と慌てた様子で念押ししていた。
「えーどうしよっかなぁ。 真衣には昔散々ユキくん関連でからかわれたからなぁ」と私は大人気なく意地悪を言った。
「ごめんごめん今度ランチ奢るからさぁ……」と真衣はえらく弱気だった。
何だか今だけ高校時代に戻ったような気がして、無性に心が躍った。 高速道路を下りて、目的地まではあと十五分ほどだと三郎太くんが言う。
それまでは、今だけ大人を忘れて童心に帰っても許されるかしら。




