第五十三話 限られた時間の中で 4
「おはよっ、ユキ」
改札を出て間もなく、僕は目を疑った。 駅舎より少し離れた線路沿いの道に、例のマフラーを巻いた玲さんが立っていたのだ。 玲さんは僕を見つけるなり胸辺りで手をひらひらさせながら僕に朝の挨拶を果たしてきた。
「えっ、おはよう、ございます、玲さん。 ――じゃなくて、どうして玲さんがこんな所にいるんですか」
僕は駆け足気味に玲さんの元へと立ち寄り、何故登校経路において駅方面にはまるで縁の無い玲さんがこの場所に居るのかという事を狼狽しつつ訊ねた。
「ん、そんなの決まってるじゃない。 ユキと一緒に登校する為でしょ」
そんな事は言わずとも分かるだろうと言いたげな口吻で、玲さんはそう言い切った。
「え、僕と、登校って」
未だ玲さんの突飛な行動に要領を得られなかった僕は、ただ狼狽える事しか出来なかった。 それから玲さんは少し目線を下げたあと、
「……私たち三年生が普通に登校するのって実質あと一か月も無いから、こういうのもユキとの良い思い出になるかなと思ってね」と感傷気味に語った。
「そうだったんですか。 でも、それならそうすると事前に言ってくれてたら良かったですのに」
「分かってないなぁ、こういうのはサプライズ的な方が記憶に残りやすいんだよ」
「そんなものなんですかね」
「そんなものなんだよ」
玲さんは自信に満ちた眼差しを以ってそう言い切った。 まったくこの人には敵わないなと思いつつも、なるほど玲さんの言う事に一理あったのも確かで、『恋人同士が一緒に登校する』という行為は、残すところあと一か月も無い玲さんとの学校生活の思い出を彩るのにはこの上ないシチュエーションだ。 なればこそ僕もまた玲さんの思い出作りの為に力添えをしてあげなければ恋人の名が廃る。
「……わかりました。 じゃあ、一緒に学校へ行きましょう、玲さん」
そうして僕は玲さんからの突飛な提案を受け入れた。
「うん、行こう、ユキ」
玲さんは朗らかに笑みを浮かべていた。
「ほんだら俺は先行っとるからな優紀」と、僕たちの傍に立ち寄ってそう伝えてきたのは竜之介だった。 思いがけぬ玲さんの出現によってすっかり竜之介の事を忘れてしまっていたけれど、竜之介は僕の事を冷やかすでもなく、そればかりか僕に気を遣って一人で登校しようとしてくれていた。
「ごめん、竜之介」たまらず僕は竜之介に謝った。
「気にすんなや」しかし竜之介は気さくにそう答えた。
「ごめんね、いつもの登校の邪魔しちゃって」と玲さんも竜之介に謝りを入れた。 玲さんは僕と竜之介が毎回一緒に登校しているのを知っていたから、さすがの玲さんも突然僕たちの間に割って入ってしまった事に対し、それなりの後ろ暗さがあったように思われる。
「いえ、気にせんといてください。 今は二人にとって僕の方がよっぽどお邪魔でしょうから。 そんだら僕はこれでお暇しますんで、どうぞ二人の時間を楽しんでください」
相も変わらずの男前な発言をした竜之介は微笑を浮かべながら玲さんに軽く会釈を果たしたあと、一人颯爽と通学路を歩み始めた。 そうして僕たちの元から去ってゆく竜之介の背中がいつもより大きく見えた。 別に彼の背中が大きく見えるのは彼の体格によるものではなく、きっと彼の持ち合わせる男気がそうした錯覚さえをも生み出しているのだろう。 僕は彼以上に『男』を身に纏っている男性を未だ知らない。
「私、あの子と初めて話したけど、思ってた以上に礼儀正しくてしっかりした子だったね」
竜之介の真摯で紳士な態度に感銘を受けたのか、玲さんは竜之介の背中を目で追いつつ彼に対する評価の高かった事を話した。
「多分、柔道を通じて培われた礼節を大事にしてるからでしょうね」
「なるほどね。 ユキも良い友達を持ったものだよ」
「……それ、親に言われてるようで何だか違和感あるんですけど」
「何言ってんのさ。 私はユキの保護者みたいなもんでしょ」
「それはそうですけど」
「そこは素直に認めちゃうんだ」
「まぁ、玲さん無しの生活なんてもう考えられませんし」
「……そんな恥ずかしい台詞を登校前にさらっと言えるところがユキのすごいところだと思うよ」
「それって褒めてくれてるんですか」
「ユキがそう受け取ったのならそれでいいよ」
「何だか含みのある言い方に聞こえるんですけど」
「それはユキが疑り深いだけ。 ほら、いつまでもこんな所で油売ってないでそろそろ学校行くよ。 もう八時ニ十分だし」
先に油を売り始めたのは何処の玲さんだと問い質したかったのは山々だったけれども、これ以上この場で論判を繰り広げたら本当に遅刻してしまうかも知れなかったから、ここは素直に僕が引いて、いよいよ僕は玲さんと学校へ向かい始めた。
駅舎から学校までは徒歩五分程度だけれども、僕はその時間のあいだ、絶えず玲さんと喋りながら歩いていた。 一年近く登校し続けてすっかり歩き慣れた道のはずなのに、僕の隣に玲さんが居るだけで、僕の隣で玲さんが笑っているだけで、目に見えるもの耳に聞こえてくるもの総てが新鮮に感じられる。
冬の寒さを思わせないほど、僕の心は熱く熱く、躍り続けている。 この時間が一生続けばいいのに――と願っているうちに、僕たちは校門に辿り着き、昇降口前まで歩みを進めていた。 朝から玲さん由来の例の名残惜しい心持を抱かされるとは、今日はなんて贅沢な日なんだ。
「それじゃ、またあとでね」
「はい、またあとで」
そうした挨拶を交わしたあと、僕たちは昇降口前で別れた。 僕は自分の教室へと向かい、ホームルームを終え、それから三学期最初の授業に臨んだ。 その授業中、僕は玲さんと別れる前に交わしたとある言葉を頭の中で反芻していた。
『またあとで』――良い言葉だ。 この別れが今生のものでない事を真っ向から否定する、とても心地の良い言葉だ。 そしてその言葉は同時に、焦らしの言葉でもある。 会いたくて会いたくてたまらないのに、何かしらの都合で会う事が叶わない。けれども近い内に会える事は確約されていて、そういう場合は大抵会う時間も場所も決まっているから、余計にもどかしさを胸の内に育ててしまう。
早く時間が過ぎろと掛け時計の秒針を無駄に目で追う。 時間を忘れたフリをして、けれどもやはり気になって時間を確認するも数分と経っていない事に絶望し、そうこう無駄な足掻きを繰り返しているあいだに相手への想いは募る一方で、まるでおあずけのよう、焦々と焦らされる。
あぁ、本当に生殺しだ。 まるで授業に身が入らない。 玲さんも僕の事を想ってくれているだろうかと無暗に心配したり、今日玲さんの家を訪れた時に何を喋ろうかと無駄にわくわくしたりしながら――ようやく四時間目までの授業を終え、僕は四人の友達と食堂へと向かった。




