第五十二話 Waltz with me 20
「確かに、僕はその呼ばれ方をするのが嫌だと、友達にも玲さんにも言いました。
……でも、本当は好きだったんです。 そう呼ばれた時から、ずっと」
僕は誰にも話した事の無い僕の『ユキ』という呼び方に対する思いを玲さんに吐露した。 玲さんは「そうだったの?」と少し驚いた様子で僕に訊ねた。
「はい。 好きって言っても、男としての僕じゃあなくて、女としての僕の心がその呼ばれ方をされるのが好きだっただけなので、あの頃は意地を張ってその呼ばれ方に難色を示してましたけど、もう、意地を張る必要も無くなったのかなと思って」
「そういう事ね。 でも、ほんとうにキミの欲しいものはこんな願いで良いの? 何だかキミがくれた物に見合ってない気もするんだけど」
僕の思いは玲さんに理解されたようだったけれども、やはりマフラーという物体を貰ってしまっている以上、ただの名前の呼び方一つがその返報で良いのかと、彼女は今もなお難色を示しているようだった。 けれども玲さんがそうした後ろ暗さを抱く必要はこれっぽっちも無い。 何故ならば――
「大丈夫です。 僕にとってその願いは何ものにも代えがたい玲さんからの贈り物に違いないですから」
僕が愛し、僕を愛してくれた人が僕の好きな呼ばれ方で名を呼んでくれる事は、僕にとって天上の幸いに相違なかったから。
「そっか。 わかったよ、ユキ」
「―~っ!!」
ああ、何という耳ざわりの良い響き。 そのたった二文字の名を玲さんに呼ばれただけで、僕の全身は一瞬にして歓喜に満ち溢れた。 以降も止め処なく溢れ続ける歓喜を何処へどうやって放出すれば良いかすらも分からず、次第に顔に熱が籠ってゆくのを感じた僕は、覚えず両手で顔を覆った。
嬉しいのやら恥ずかしいのやら訳が分からなくなって、仕舞には謂れの無い笑いさえ込み上げてきて、手で顔を覆ったまま肩まで震わせてしまった。 きっと玲さんの目から見た僕は今、とても気味の悪いものに見えているに違いない。
「……あのさ、自分からお願いしといてそこまで露骨に照れられると見てるこっちもさすがに恥ずかしくなるんだけど。 もー、耳まで真っ赤にして。 ほら、別に笑ったりしないから顔見せてよ」
案の定、玲さんが戸惑っているのが声だけでも聴いて取れた。 そして玲さんは僕に顔を見せろと迫ってくる。
「……本当ですか?」
玲さんを信じていない訳ではなかったけれども、僕が彼女にカミングアウトしたあの日、僕の泣き顔をこれでもかというほど笑い飛ばされた苦い経験があったから、僕は指と指の間から玲さんの顔を確認しつつ、手の中の籠った声で疑り深くそう訊ねた。
「本当だって」
玲さんの顔色にも声色にも別段変化は起こらなかった。 どうやら今回は大丈夫のようだと自分に言い聞かせた僕はようように顔から手をのけて、玲さんと対面して――間もなく、先の僕のからかいの仕返しのつもりだろうか、玲さんは僕の顔を見るなり「顔っ、真っ赤っ。 どれだけ照れてたのさっ、あははははっ! 可愛いっ」と腹を抱えん勢いで大笑し始めた。 その大笑が引き金となって、僕の顔に更に熱が籠ってきたのが感じ取れた。
「……玲さんのうそつき」
僕は不貞腐れつつ、そうした悪態を付く事しか出来なかった。 玲さんの大笑はしばらく周辺に響き続けていた。
「――あーほんと、キミは私を飽きさせないね」
それからようやく玲さんの笑いが収まったころ、彼女は下瞼を指で拭いつつそう言った。
「……べつに玲さんの暇を潰す為に照れてた訳じゃないですから」
散々笑わないと念を押していたにも拘らずあれだけ笑い飛ばされてしまったら、いくら僕でさえも玲さんに対する不満が残るに決まっている。 だからだろう。 僕の口吻は実に皮肉ったらしかった。
「ごめんごめん。 でも、ありがとね」
「それは、何のお礼ですか」
玲さんが出し抜けに要領の得ない礼を果たしてきたものだから、僕は率直に訊ねた。
「私がキミの呼び方について悩んでる事を聞いちゃったから、わざわざ欲しいものっていう名目を使ってまで私の為にこういうきっかけを作ってくれたんでしょ?」
「え、いや、その、これはあくまで僕が玲さんにそう呼ばれたかっただけで」
「ふふっ、ほんとユキはこういう時に素直にならないよね」
僕の何もかもを見透かしたような口ぶりで、玲さんはそう言った。
「……そうです、そうですよっ。 僕が好きな玲さんの為にきっかけを作ってあげたんです。 余計なお世話でしたかっ」
僕は不貞腐れた幼子みたような態度でそう言った。
「ううん。 すごく助かったよ。 だから、ありがとね、ユキ」
「……はい」
何だか玲さんにうまく言い包められたような気がしてならない。 けれども、玲さんの『ありがとう』という言葉に嘘偽りは感じられなかったから、そうした心からの正直な思いを織り交ぜて僕を宥めた玲さんをやり手だと思ったし、また、ずるいとも思った。
「さてと、いいかげん暗くなってきたし、今度こそ帰るとするよ」
別れるには頃合いといった気味で、玲さんがそろそろお暇すると言っている。 空はもう夜の帳が降り切る寸前だった。 スマートフォンで時刻を確認してみると、もう十七時を回っていた。 あれから三十分近くこの場所で綾香と一悶着あったり玲さんと色々喋っていたようだ。
けれども、綾香の出現がなければきっと僕と玲さんの関係は徐々に希薄してゆく一方だったろうから、今日この場所で綾香と出くわしたのは、僕と玲さんとを強く結びつける運命的な力が働いた結果なのかもしれない。
感謝という言葉を使うと語弊が生まれるかもしれないし、かといって誰に感謝するという訳でもないけれども、今日この街で過ごした中での出来事で何か一つでも欠けていればこうした結果にはならなかったろうから、今回ばかりは運命という神の悪戯を信じた上で、この言葉を口にしたい。
気まぐれな運命に、ありがとう、と。
「それじゃあ、行くね」
「はい、気を付けて」
互いに別れの挨拶を交わした後、玲さんは駅南出口の階段の方へ歩みを進め始めた――
「あっ、そうだそうだ、忘れものっ」
――かと思ったら、玲さんはふと思い出したかのような口ぶりでそう言ったあと、軽快に踵を返して再度僕の方へと駆け足気味に向かって来た。 僕の周辺に鞄か何かを置き忘れていたのだろうかと足元付近を見渡してみたけれど何もなく、一体何を忘れたのだろうと気になりつつ僕は玲さんの接近を待った。
「玲さん、いったい何を忘れたんです――か」
玲さんが真っすぐこちらへ駆けて来たのを確認した僕はそう訊ねかけ、そうして一瞬視界から玲さんの顔が消えたかと思った時には、僕は左頬に温度のある柔らかな感触を覚えていた。
「……えっ、玲、さん?」
「人通りが多いから、今日はこれで我慢して。 それじゃまたね、ユキ」
そう言い残して、玲さんは僕の方を振り返る事も無く今度こそ駅南出口の階段の方に消えていった。 そうして、僕は先の左頬に受けた謎の感触を左手で微かにさするようにして触りつつ、玲さんが僕に『何』をしたのかを考えた。 考え始めて間もなく、僕は玲さんの『忘れもの』の正体に辿り着いた。
「……そんな自分勝手な忘れもの、しないで下さいよ、玲さん」
そう呟いて、僕は仰向いて夜空を見上げた。 もう空は真っ暗で、すっかり星々が煌めき始めている。 加えて徐々に空気も冷え込んで来た。 吐く息が殊更に白い。 今夜も雪が降るんじゃないかしらと思うほど、冷えた夜だ。
けれども僕は、マフラーで顔を防護する事も無く、そのまま自宅へと歩を進めた。 僕の左頬に与えた玲さんの『忘れもの』の熱を少しでも冷まさなければ、僕の顔が灼けてしまうと思ったから。
忘れものだと言ったのに、玲さんは一方的に僕に熱を与えて去っていた。
やっぱり玲さんは、天邪鬼で、うそつきだ。
けれど、そんな玲さんが、狂おしいほど愛おしい。
次はいつ会えるだろうか。 今この時間さえも惜しい。
僕だけでなく、玲さんの顔も熱くなっていて欲しい。
誰に似たのかどうやら僕も、結構わがままな人らしい。




