第五十二話 Waltz with me 19
それから僕はしばしの間、からかい過ぎてちょっと機嫌を損ねてしまった玲さんの機嫌取りに四苦八苦した。 「そういう生意気なとこは直しなさいって言ったばかりでしょうが」と嫌味を言われ、僕は苦笑いで場を濁す事しか出来なかった。
そうしてようように玲さんの機嫌が戻ってきたころ、僕は不意な疑問というか、違和感というか、何だかもやもやしたものに纏わりつかれたような感覚を覚えた。
「あの、さっきの玲さんじゃあ無いんですけど、僕の方もしっくりこない事があるんですけど」
そのもやもやの実態は既に掴めていたから、僕はその件について玲さんに語り始めた。
「ん、何が?」
玲さんはきょとんとしつつ、はてなと首を傾げながらそう言った。
「僕、これまで玲さんに名前で呼んでもらった事、一度も無いんですけど」
僕の抱いていたもやもや――それは、玲さんの僕に対する呼び方だ。
これまで玲さんは僕を呼ぶ時に必ず『君』と呼んでいて、今日までその呼び方を徹底していた。 僕はそれ以外の呼び方で彼女に呼ばれた事は無く、当初玲さんは人の名を呼ぶのが苦手な人なのかという推論を立てていたけれど、理央さんの事も双葉さんの事も古谷さんの事も何の躊躇も無く名字や名前で呼んでいたから、何故僕だけ名前で呼んでくれないのだろうという不満はこれまでにもちろん抱いていた。
しかしながら、自分に対する相手からの呼び方を訂正させるほど僕には根性が無いし、とりわけ僕の人権を踏み躙った呼び方などもされていないから指摘という指摘も出来ず、結局僕は玲さんの僕に対する呼び方の問題を今日まで等閑にしてしまっていた。 けれども、僕と玲さんが恋人同士になった今だからこそ、僕は玲さんに『君』ではなく、ちゃんと名前で呼んでもらいたかったのだ。
「いやいや、呼んだ事あるでしょ」
先のからかいの返礼のつもりなのか、当の僕がそう言っているのに玲さんは真顔で僕の名を呼んだ事があると強く言い切った。
「えっ、そんな事ありましたっけ」
そう訊ねつつ、玲さんが僕を呼ぶ際に僕の名を使った事があったろうかと思考を巡らせた――けれど、やはりそうした記憶は僕の頭には残っていなかった。
「あるよー。 キミが忘れてるだけでしょ」
まだ惚けるつもりなのか、玲さんは僕の記憶力が乏しいとでも言いたげにそう言った。
「じゃあ、どのタイミングで僕の事を名前で呼んだんですか」
それだけ強気な発言をしておきながら僕にここまで問い質されたら、玲さんも答えない訳にもいかまい。 先の綾香とのやりとりでの玲さんみたような心理学などはもちろん知らないし使えないけれども、僕も人の機微を察知するのは聡い方だから、いくら嘘の巧い玲さんだろうと、疑いの目を光らせた僕ならば何かしらの違和感を感じ取れるはずだ。 そうして彼女の嘘を見抜いた暁には、また玲さんをからかってやろうと思う。 さぁ、来るなら来いと、僕は余裕綽々と身構えた――
「私がキミと初めて第三中庭で会った時、キミの名字を言ったよ」
――しかし僕の予想や身構えはまったくの徒労に終わった。
「……確かに、今思い返せばあの時にそういう風に呼ばれた気はしますけど、その時は僕も玲さんも初対面だったじゃないですかっ」
すっかり予想が外れてしまったうえに肩透かしまで食らわされた僕は、玲さんに食って掛かるような態度でそう言った。
「うん。 でもキミの名前を呼んだ事には変わりないよね?」
「それは、そうですけど。 でもっ、それ以降僕を名前で呼んだ事は無いですよね」
散歩道から駅に辿り着いた時点からそれなりの時間が経過しており、いよいよ辺りの照度が露骨に失われつつあったけれども、ここまで来たら僕は玲さんに僕の名を呼んでもらうまで何としてでも彼女をこの場に引き留めてやろうと思い立った。
「ううん、あるよ。 というか今日呼んだし」
「えっ、全然覚えてないんですけど」
「ほら、ボウリングでキミの名前を確認した時に呼んだでしょ」
「あれは呼んだとは言いません」
「だよねー」
「玲さんは、どうして僕の名前を呼ぶ事をそこまでためらってるんですか」
「……正直に言っちゃっていい?」
「どうぞ」
「キミの事を君君って言ってる内に、キミの事を何て呼べばいいのか分かんなくなっちゃったんだよ。 私もその事について結構悩んでてね、結局今日の今日まで先送りにしちゃってたけど」
本当に悩んでいたのか、玲さんにしては珍しくちょっと困った顔を覗かせつつ僕から視線を逸らし、指で頬を掻いていた。
「そこまで悩まなくても、別に名字を呼び捨てなり名前呼びなりで気軽に呼んでくれたら良かったですのに」
「いやー、何だか呼び捨てには抵抗あったんだよね」
「そうなんですか、理央さんや双葉さんの事は呼び捨てにしてたので、てっきりそういう呼び方には抵抗が無いものだと思ってましたけど」
「んー、その二人は同級生だし、私も親しみを込めてそう呼んでたんだけど、キミの場合は年下で、呼び捨てにすると何だか明らかに目下扱いしてるようで気が引けるし、かと言って君付けするほど他人行儀な距離感でも無かったし、そうやって悩んでるうちにずるずるとキミとの関係が続いちゃって、日にちが経つごとにキミを何て呼べばいいのか迷いあぐねちゃってたって訳」
僕は無言で首肯を果たした。 確かにこれまで玲さんと接している限りでは、彼女は僕を年下だからと露骨に見下したり先輩然と高圧的な態度を取ったりした事は無かったけれど、その柔和な態度の裏にそうした目下の者への配慮があったなどとは露知らず、もちろん僕自身も玲さんに対する目上の者としての敬意は払っていたつもりだけれども、彼女のそうした配慮があったからこそ僕は、まるで同級生の友達のような感覚で玲さんと接し続けてこれたのだろう。
そして僕はこの流れを、玲さんの悩みを解消出来る良いきっかけだと思った。 無論、玲さんの今日まで抱え続けていた悩みを取り除いてあげたいという気持ちは強く抱いているし、僕としても玲さんと恋仲同士になった今だからこそ彼女に僕の名前を呼んでもらいたいというわがままな思いがあったから、またとない絶好の機会を前に――はっと僕は妙案を思いついた。
「なるほど、じゃあ玲さんも僕の名前を呼びたいっていう意識はあったんですね」
「うん。 でもいきなり呼び方を変えるのも何だか照れ臭かったし、これまでにそういう呼び方に関する話題も無かったから、どのタイミングで変えたらいいものか全然分からなくてね。 せめてきっかけか何かがあれば良かったんだけど」
「――じゃあ、そのきっかけを、僕が作ります」
「……えっ、どういう事?」
「玲さん、僕の欲しいモノが今、決まりました。 まぁ、欲しいモノって言ってもそれは物体じゃあ無くて、言ってしまえば一つの願い事みたいなものなんですけど」
「物体じゃあ無い、キミの欲しいもの、って」
「――玲さん、僕の事を『ユキ』って呼んでくれませんかっ」
「……」
僕の欲しいモノを耳にしたあと、玲さんは目をぱちくりさせながらきょとんとしていた。 やはり永らく僕の呼び方に悩みあぐねていた玲さんにとってその願いは唐突過ぎたろうかと、次第に後悔が僕の胸を走り始めた。
「……やっぱり、無茶なお願いでしたか」
僕はすっかり自信を無くしていた。 こういうものはある程度の段階を踏んでようやく容認出来る事柄であるから、お願いという体とはいえ僕が僕の呼ばれ方を相手へ強制するなど、烏滸がましい行為だったのかも知れない――
「ううん、別に無茶でも何でも無いけど、ただ、キミってその呼ばれ方をされるのあんまり好きじゃ無かったって記憶にあったから、本当にその呼び方でいいのかなと思って」
――しかし僕の懸念とは裏腹に、玲さんが戸惑っていたのはそうした理由だった。




