第五十話 ほんの些細なこと 68
その日は荒井先生からの諸々の処分を言い渡された後、生徒指導室を退室したその足で帰路へと就いた。 正式な謹慎処分は明日からだけれど、昨日あのような騒動を起こしてしまっていて、ほとぼりも冷めない内に今日一日学校生活を送るのも気まずいだろうから今日は帰った方が良いと荒井先生に言われていたからだ。
ひとまず今日の授業に必要な教科書類を段取りしてはいたけれど、謹慎及びA特待剥奪などの処分を言い渡された後に平然として丸一日学校生活を送れるほど私の精神は穏やかではなかったから、私としてもその申し出は非常にありがたかったのが事実だった。 だからこそ、私の足に淀みという錘は無く、殊の外軽い足取りで駅まで向かう事が出来た。
昨日は昨日で昼過ぎに下校したけれど、今日は登校した後に私への処分を言い渡されてからそのまま下校するというまったくの蜻蛉返りだったから、その時間帯の電車内から見える、午前中の空気を存分に漂わせた、陽も上り切らない朝の爽やかな景色がやけに新鮮に見えた。 これほどまでに憂い気分のままこうした景色を見る事は二度とないだろうからと、私は私の進路を無暗に心配しながら稀有な景色を目に焼き付けた。
それから十一時過ぎに帰宅した私は、昼食を食べる事すら忘れて自室で進路について悩みあぐね、そうして、母の帰る一時間前に私の進路の舵を切る方向を決定した。
私の自宅から南東へ道なりに五分程度歩いた場所には、市内の公立高校がある。 私の進学しようとしていたあの私立高校と比べると断然偏差値は落ちてしまうけれど、今の私に知識を貪りたいという欲は無く、そのうえ正直に告白すると、中学三年間ずっと往復三時間に迫る電車通学をし続けて、いくらA特待という資金面において多大なる免除及び補助を受けた上で質の良い勉学が出来るからといえども、私の心の何処かには、その長時間通学から一日でも早く逃れたいという率直な弱音が中学一年の時から居座っていたのも事実で、理央を亡くし、ああした暴力騒動まで引き起こし、挙句の果てに長期謹慎とA特待剥奪の処分を受け、すでに私の精神は地を這い蹲っていたから、今更新天地で新たなる高みを目指そうなどという高尚な意思が私の心から生まれてくる筈がなかった。
だからせめて中学と違い高校は私の精神の安らぎの場として、朝の八時に起床しても遅刻の気遣も無く、また、適度な勉強のみで難無く進級でき、中学時代の私を誰も知らない真っ新な環境で緩い学校生活を送りたかった。 故に私はその高校へ進学する事を決めたのだ。
そして進学にあたっては、およそ一か月後に行われる一般入試を受ける事になるけれど、腐っても私はあの県内屈指の難関校で三年間A特待を維持してきた学力があり、今更何一つ勉強しなくともその高校へ進学出来る自信があったから、まるで試験勉強の心配をしなかった。 むしろ早急に手を打たなければならなかったのは願書の出願だった。
家族共有のノートパソコンで調べてみたところ、私の進学しようとする高校の一般入試の出願期間は残すところあと一週間程度で、それを逃せば私は中学生にして浪人してしまう事となる。 それだけは世間体として避けなければならない由々しき事態だった。
もしそうした最悪の事態が起きてしまった場合、私の通う私立中学からそのまま高校へ内部進学をするという道もあるにはあったけれど、今後A特待を受けられない可能性が極めて高い以上、たとえ浪人しようとも私はそちらの道を歩むつもりは更々なかった。
たとえ父母にお金の事は気にしないでそのまま進学しなさいと諭されたとしても、私は頑なになってでもその進学の道を辞退する決意を胸に固めていた。 よって私は何が何でもこの一週間の間に例の高校へ願書を届け出なければならなかった。
幸い明日から謹慎期間に入るから時間はたっぷりとある。 しかし内申などの内容の書かれている調査書は在学中の学校に作成してもらわなければならないから、謹慎中の身ではあるけれど成る丈早めに学校へ赴いて調査書の依頼をしておかなければならない。
そもそも謹慎中に願書の出願など出来るのかどうかさえも定かでは無いから、その辺りの問題も含めて明日電話で学校に問い合わせなければならないだろう。 一か月の謹慎で一時の暇が訪れたかと思えば、途端にやる事が山積みに増えて嫌気がさす。
しかし、ここで面倒だからと何もかも放り出してしまったらそれこそ私の人生の歯車はどこの部位にも噛み合わなくなってしまうだろうから、地を這い蹲る私の精神に鞭を打ってでも私は今この時に動かなければならない。 そうして今後の方針を固めている内に母が帰宅した。 私はまず昨日の騒動に対し学校側が私に下した処分の内容を母に告げた。 母は悲しい顔をしていた。
次に私が暴力を働いた女生徒三人の名前と電話番号の書かれた紙を母に手渡し、彼女らの家庭に謝罪をしなければならないのだと伝えた。 その辺りは母も覚悟していたのか、私の謹慎やA特待剥奪の処分を聞いた時よりは遥かに落ち着いた様子だった。
謝罪の電話に関しては出来る限り早い方が良いから、今からでも掛けようと言われて少し緊張が走った。 けれども、こうした謝罪は日にちを遅らせれば遅らせるほどに伝えづらくなってしまうから、母の判断は間違いでは無かったのだろう。
全員に謝罪の電話を入れ終えたのは十八時前だった。 主に母が通話を担ってくれて、私は途中で相手側の親に謝罪の言葉を伝えるのみだった。 最初に掛けた二人の親は、私の思っていたより終始落ち着いた様子を貫いていて、なるほど暴力を振るった事は褒められた事ではないが、その原因を作ってしまったこちらにも非はあるから、喧嘩両成敗ではないけれど、お互いの言動には気を付けるようにしよう、と容赦してくれた。
問題は最後に電話した、私が何度も頬を叩いた女生徒の家庭だった。 先方の母親は私たちの正体を知るなり、受話器を持っていない私にさえ判然と耳に聞こえてくる甲高い声で母を罵倒していた。 母は終始謝り尽くしだった。
途中、私に電話を代われと先方に言われ、恐る恐る母から受話器を受け取り一通りの挨拶を済ますと、次の瞬間には例の声が私の鼓膜に嫌というほど響いた。 一方的な罵声の数々と、鼓膜を貫かれそうな金切り声を耳元で聞かされ続けて、頭がくらくらした。
再び母に電話を替わった後も、先方は勢いを落とすどころか更に声のトーンを上げて母を罵倒し続けた。 そのうち私の隣で電話越しに頭を下げて謝罪を繰り返す母を見ていられなくなって、私は目を閉じた。 目を閉じた事で余計に例の金切り声が耳を襲撃して、耳すらも塞いでしまいたくなった。 一秒でも早くこの悪夢が終わればいいと心から願った。
結局母は三十分近く先方からの一方的な罵倒を聞かされ続けていた。 通話を終えた後、母は深い溜息をついて憔悴し切っていた。 隣に居た私でさえ多大な心労を負っているのだから、母は私の数倍の心労を被っている事だろう。 けれど母は私に八つ当たりなどはせず、私の方を見て微笑を浮かべながら「もう、こんな馬鹿な事はしちゃ駄目だからね」と私を諭してくれた。
怒りに任せた行動の結果は自身の責任のみでは済まない場合があるのだという事を身を以って知った私は、改めて浮き彫りとなった己の愚かしさが情けなく、恥ずかしく、そして母をこうした目に遭わせてしまった事がたまらなく悔しくなって、私はぼろぼろと涙を流しながら「お母さん、ごめんなさい」と母に謝罪した。
母は私の体を両腕で抱きかかえながら「お母さんは何があっても玲の味方だからね」と耳元で囁いてくれた。 その言葉の耳ざわりの良さと言ったら先の金切り声の真逆で、私の心を優しく包み暖めるような慈愛に溢れていた。 私の生まれて来たのが母の元で良かったと、私は自身の中学生という身分すら忘れて赤子のよう泣き続けた。




