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そうして君は僕を知る  作者: 琉慧
第五部 太陽は月を照らして
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第五十話 ほんの些細なこと 62

 しばらく理央の母からの無言の抱擁ほうようが続いた後、彼女は抱擁を解いて私から離れ、同じ体勢のまま私の顔をじっと見つめてきた。 決してほがらかな表情とは言いがたかったけれど、確かにその口元にはわずかながら笑みが浮かんでいた。 私にはその笑みが何を示しているのか、まるで分からなかった。 それから理央の母は私の手を両手て握り締めてきて「ほんとうに、辛い思いをさせてしまってごめんね、玲ちゃん」と、また要領の得ない謝罪を果たしてきた。


「……何でおばさんが謝るんですか。 謝らなければならないのは、取り乱してしまった私のほうです」


 いよいよ理央の母の謝罪を受け止め切れなくなった私は、彼女の謝罪の無意味さに反駁はんばくていしてしまった。 しかし彼女は優しくかぶりを振って、「ううん、いいのよ、玲ちゃん」と落ち着いた声調で私の反駁を受け流した。 それから理央の母は続けて口を開いた。


「確かに、斎場の人たちには迷惑を掛けてしまったけど、玲ちゃんがほんとうに理央の事を想ってくれてたって事が痛いほどに伝わったから、こんな言葉を使うのはおかしいのかも知れないけど、理央の事をそこまで想ってくれていた友達が居た事を、私はとても嬉しく思ったの。 だから、玲ちゃんが私たちに謝る事なんて無いし、今回玲ちゃんにはとても辛い思いをさせてしまったから、どうしても一言、謝りたかったの。 ……ほんとうにごめんね、玲ちゃん。 これまで理央の友達で居てくれて、ありがとう」


 理央の母の思いを聞き終えて、私は息が詰まりそうなほどに胸が苦しくなった。 なるほど私だってようやく受け入れる事の出来た理央の死には深い深い悲しみを負った。 それは一朝一夕でぬぐえるほどの悲哀では決してないだろう。


 けれども、それはこの場にいる参列者の誰しもがいだいている悲しみだと思うし、高々(たかだか)三年にも満たない付き合いだった私よりも、理央の生まれてから現今に至るまで十数年ずっと彼女の成長を間近で見守り続けてきた理央の母及び親族の方がよほど辛いに決まっている。 要するに、私だけが理央の特別などでは断じてないという事だ。


 なのに理央の母は取り乱した私を気遣って、理央の死に対してこの場で最もやりきれない無念を抱いているであろう自分自身の心の配慮すら後回しにして、私の心の快復を優先してくれたのだ。 この立派な気遣いに胸を痛ませない方がどうかしている。 やはり、理央の母は一人の人間として、尊敬に値する人物だと再認識させられた。


「……あれ? 何で?」


 様々な感情を心に走らせている内に、何故だか私の目から突然涙がなくあふれてきて、ついには嗚咽おえつまで始まってしまった私は、自身の涙の意味すらも分からないまま涙を流し続けた。 そうした私の異変を目の前で見ていた理央の母は正面から私を優しく抱擁し、何も言わずに赤子をあやすよう背中をぽんぽんと叩いてくれた。


 理央の母のやさしさを真っ向から受けた事と、これまで散々抑制してきた理央の死に対する悲しみが血潮と共に私の全身の血管を容赦なく駆け巡ったものだから、私は私のこれまで築いてきた人格やら性質やらをすべて忘却した上で、人目もはばからずに理央の母の胸の中でわんわんと涙を流し続けた。

 これが理央の死を知ってから私が意識的に流した、初めての悲しみの涙だった。



「ごめんなさい、駅まで送ってもらって」

「気にしないで、どうせ帰り道だったから」


 私は斎場から荒井先生の車で学校近くの駅まで送迎してもらっていた。 間もなく午後だというのに雨は朝と変わらずしっかりとした雨足の線の太さを保ち続けていて、私は駅のロータリーの屋根の下で雨をしのぎつつ荒井先生に送迎の礼を伝えた。


 ――あれから理央の母の胸の中で一頻ひとしきり泣き続け、ようやく涙が収まったあと、私は理央の母に、火葬はまだ一時間ほど掛かるし、理央の遺骨と立ち会ってしまったらまた私の心に深い傷を負わせてしまうかも知れないから、もう少し気持ちが落ち着いたら個別にタクシーを呼んであげるから先に帰りなさいと伝えられた。


 理央の母の言い分は別に、理央の遺骨を目の前にして再度私が火葬炉の扉を叩いた時のよう取り乱すかも知れないからという心配をしていたのではなくて、これ以上要らぬ心労を私に掛けさせまいとした理央の母の心よりの憂慮ゆうりょであった事は、その言葉中の彼女の声色や態度から感じ取れていて、私としても理央の母に今以上の私への気遣いをさせたくは無かったから、私は素直に「わかりました」と彼女からの提案を受け入れた。


 本来は理央の母の言った通り、タクシーを呼んでもらって駅まで向かうつもりだったのだけれど、荒井先生の方も昼以降に外せない用事があり、私の介抱が終わり次第理央の火葬を待たずに斎場を去る予定だったらしく、それなら自分が責任を以って坂井玲わたしを駅まで送り届けると理央の母に進言してくれた事がきっかけで、私は程なくして荒井先生と共に斎場を去り、先生の車で駅へと向かったのだ。


「それじゃあ私はこのまま帰るけど、一人で帰れそう?」

 斎場での私の取り乱し具合にかんがみてか、えらく心配そうに先生がたずねてくる。


「はい、まだちょっと頭が重い感じがしますけど、意識はしっかりしてるので大丈夫です」

「そっか。 でも万が一って事もあるから、電車が来るまで乗り込み口付近には近づかないようにね」

「わかりました。 心配してくれてありがとうございます、荒井先生」

「うん。 じゃあ気を付けてね。 また学校で」


 そうして荒井先生の車は駅から走り去っていった。 私は先生に言われた通りに電車を待ち、地元行きの電車に乗り込んだ。 座席に座った途端、葬儀という慣れない行事への連日の出席と、記憶に無いとは言え、散々取り乱した末に意識を失ってしまった事による肉体的及び精神的疲労が今になって押し寄せて来たのか、間もなくひどい眠気に襲われ始めた。


 私は電車の窓をなぞり濡らす雨の粒を目で追いつつ、うつらうつらしながら今日の出来事を頭の中で何度も反芻はんすうしている内にいつの間にか眠りに落ちていて、次に目の覚めた時には地元の駅の一つ手前の駅まで来ていた。 何やら頬辺りに違和感があると思い、指で軽くぬぐってみると、指がかすかに濡れた。 私は寝ている間に泣いていたようだった。 寝ている間に見ていた、内容は判然はっきりと思い出せないけれど、胸が張り裂けるほど辛く悲しい夢の所為せいなのかもしれない。


 睡眠中に涙を流した事などこれまで一度も無かったから、きっと身体も心も疲れ切っているのだろうと断定した私は、今日は何もせずに早く寝てしまおうと決め込んだ。 でもそれはきっと建前だったのだろう。 本当のところ、私は今日という重く辛い一日を一秒でも早く終わらせたかっただけに過ぎない。


 理央の死を受け入れはしたけれど、それをたちまち飲み込み、自分のものに出来るかと言われれば決してそうではない。 私はこれから永い時間を掛けて、理央の生前と死後の世界とを区別しなければならない。 もう、あらゆる場面において、私の眼前に理央が現れる事は無い。 けれど幼い私はきっとあらゆる場面で理央の面影おもかげを思い出してしまうだろう。


 そのたびに私は理央の死を痛感し、涙を流すに違いない。 人の死に対する無念は、葬儀だけで決着が付くものではなく、故人が生前に取り巻いていた環境の変化をすべて受け入れて初めて決着が付くのだと思う。 だから私はこれから永い永い時間を掛けて、理央の居た世界を、理央の居ない世界へと更新しなければならない――


 そう決意している最中さなかに、私は理央の居ないこの世界が信じられなくなって、途端に悲しみに襲われ、また一人、涙を流した。 こんな調子で理央の居ない世界などを弱い私が構築出来るのだろうかとはなはだ心配になる。 けれど私はもう、理央の死を受け入れてしまった。


 およそ出来る出来ないと可否を下そうとする事が間違いで、これは最早、残された人間による義務と言っても過言ではない。

 ――そう。 出来る出来ないの問題じゃあ無い。

 私は、理央の居ない世界を、いやでもおうでも構築しなければ(・・・・・)ならないんだ(・・・・・・)

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