第十二話 忘却 2
「なるほどそういう経緯だったんだね。 それで、三郎太は昨日古谷さんに一体何を吹き込んだのかな?」
先の情報から古谷さんが三郎太の口車に乗せられて僕を『ユキくん』と呼んでいた事は明白だったので、僕は端から委細を見通した気味で率直に彼に聞き質した。
「そりゃあもう、まずは名前の呼び方からっしょ。 やっぱり名字呼びってのは何かよそよそしいし、そこで俺が千佳ちゃんに教えてやったのさ。 綾瀬優紀が最も喜ぶ名前の呼ばれ方をな!」
予め確信は得ていたものの、こうもいけしゃあしゃあと出鱈目を出鱈目と思わない風に自信満々に捲し立てられると、やはり頭を抱えずにはいられない。
「大体そういう事だろうと思ってたよ。 三郎太だけならまだしも他の人にまでその呼び方を広めないでくれないかな」と、僕は呆れた口調で三郎太に忠告を放った。
「え、俺が言うのは認めてくれんの?!」
「そんな訳無いでしょ……全く。 ――古谷さん、僕の知らない所で僕を知ろうとしてくれてる事は嬉しいんだけど、三郎太の言う事はあんまり鵜呑みにしないようにね。 この人、冗談を本当の事みたいにそれっぽく仕立てるのが上手いからいずれ馬鹿を見るよ、僕みたいに」
三郎太の勘違いをあしらいつつ、古谷さんに三郎太のおざなり具合を説明すると、彼女はどこか困惑した様子で三郎太の方をじっと見ていた。
「それじゃあ三郎太くんが言ってたあの呼び方って、間違いだったんですか?」
「あー、実はユキちゃんって俺が勝手に呼んでるだけで本当は優紀なんだわ、ユキちゃんの名前の呼び方」
ぽりぽりと頭を掻きながら、三郎太にしてはやけに申し訳なさそうに古谷さんに向けて弁明を供述している。
「そう、だったんですか。 ちょっと残念です」
三郎太の弁明を耳にした古谷さんの口からちょっと不可解な単語が聞こえた。 残念とは一体、彼女のどういう心情から放たれた言葉だったのだろうか。
「残念って?」思わず僕は古谷さんに訊ねた。
「いやその、別に深い意味じゃないんですけど、『ユキくん』ってすごく言いやすいし、それに名前の響きもかわいいので、もしそのまま呼べたらいい感じだなぁって思ってて、でも、本来の名前読みじゃない呼ばれ方をするのはやっぱり嫌ですよね」
覚えず口角が吊り上がりそうになるのを何とか堪えた。 不意に『かわいい』と言われてしまい、僕は不覚にもまた心が躍りそうになっていたのだ。 これしきの事でいちいち心を動揺させていては何時まで経っても僕は私を塗り潰す事など出来やしないと、あからさまな咳払いで場を濁しつつ自身の浮ついた心を律した。
しかし、いくら読み方が違うからと言って名前の呼ばれ方一つに目くじらを立て続けるのもどこか大人げないような気がしないでもなく、表情を窺った限りそう呼べなくて本当に残念そうにしている古谷さんを見て、僕はこのまま我を通して良いものなのだろうかと少々不安を覚えた。
「……古谷さんがそう呼びたいなら、その呼び方でもいいよ」
我ながら甘いと思った。 それでもこの程度の妥協で彼女との親交を深められるのであれば、僕の自尊心の一つや二つなど安売りしたって構わない。 むしろそうでもしなくては到底僕は私を乗り越える事など出来やしないのだ。
「本当ですか?! じゃあ、お言葉に甘えてその呼び方で呼ばせてもらいますね、ユキくん!」
「何だよユキちゃん、俺の時はあれだけ嫌がってたクセに女の子には甘いのかよー。 それって男女差別じゃねーのー?」
古谷さんにその呼び方を認めた時点で三郎太がごねるという予覚はしており、こちらの対応も既に決まっていたようなものだった。
「分かったよ。 三郎太も好きに呼べばいいから」
「マジで?! やったぜ! やっと本人公認で『ユキちゃん』呼び出来るぜー! な? やっぱり千佳ちゃんならこの呼び方認めてくれるって昨日話した通りだったろ?」
「はい! さすがユキくんの友達だけあってユキくんの事よく知ってますねっ」
昨日二人がどういう会話を繰り広げていたのかは定かではないけれど、何と言うか、してやられたという気がしてならなかった。 何がそこまで嬉しいのやらと呆れた笑いは溢したけれど、屈託の無い古谷さんの笑みをしばし眺めている内に、僕の名前一つでここまで盛り上がってくれるのならば、偶には手玉に取られるのも悪くはないなと、今回は道化で居る事を甘んじた。
「あ、そういや今日リュウの奴は?」
それから三郎太が思い出したかのよう教室を見回しながらそう言った。
「風邪で休みだって。 僕の携帯に朝早くから連絡来てたよ」
「はー、あいつが風邪とか珍しいな。 一番風邪とか引かなそうなタイプなのに」
「まぁ明日には出てこれるって言ってたから、症状自体は軽いんじゃないかな」
「そっか、無理して出てきて悪化するよりは一日安静にしてしっかり治した方がいいもんな。 俺も[お大事に]ってメッセ送っとこ」と言いつつ、三郎太は自身のスマートフォンを取り出して早速竜之介宛に見舞いのメッセージを送っているらしかった。 普段は竜之介に弄られる事の多い三郎太だけれど、こういう時真っ先に相手の心配を出来る彼の真直な性格は感心せざるを得ないだろう。
「何だよ! [お前に見舞われると悪化しそうやから止めてくれ]って! そんな切実なトーンで俺の気遣いを拒否すんなよ! 悲しくなるだろ!」
いくら竜之介に理不尽な事を言われても彼を責めないのは、三郎太の真直な性格のお陰、なのだろうか。




