第五十話 ほんの些細なこと 59
それから間もなく居間の引き戸が外から開かれて、理央の母が現れた。 彼女は「そろそろ始まりますので、どうぞ奥へ」と私たちを式場である客間へ移動するよう促した。 私は居間に待機していた参列者の流れに乗って客間へと向かった。
客間の葬儀用の飾り付けは昨日と何ら変化は無く、強いて言うならお坊様がまだ来ていないくらいのものだった。 席順としては棺近くに横へ並べられていた座布団に理央の母を含めた親族らしき人達が二列に並んで座していて、私たち一般の弔問客はそのすぐ後方に用意されていた座布団に腰を下ろした。 ざっと数えるだけでも都合二十人程度は居るようだった。 客間のすぐ右の部屋には、あの恰幅の良い葬儀屋の男性が神妙な顔つきで佇立していた。
そうしてしばらくその場で待機している内に、お坊様が客間へと現れ、合掌しつつ私たちの方に一礼を果たした後、棺に一番近く置かれていた座布団の上に腰を下ろし、右の部屋に居た葬儀屋の男性に目配せをした。 すると葬儀屋の男性が「では、これより――」と語り出し、告別式の開会の辞を告げた。 どうやらあの男性は司会進行役のようだった。
一連の流れとしては、昨日の通夜に倣うような形だった。 お坊様の読経が始まり、親族から順に焼香。 焼香の作法は昨日こなしていたから、今日はすんなりと行う事が出来た。 全員の焼香が終わった後、読経を終えたお坊様はこちらを向いて合掌、一礼し、そのまま立ち上がって客間を去っていった。 昨日は焼香を終え次第葬儀を抜けてしまったから、お坊様は式の最後まで居残らないのだなと、また一つ葬儀に関する知識を得た。
お坊様が退場したのを見計らい、司会者の男性が「喪主、挨拶」と告げ、理央の母がその場に立ち上がり、司会者の男性の立っていた場所まで向かい、参列者に一礼した後、お足元の悪い中、故人の為にお悔みをいただいて誠にありがとうございます――と、挨拶を始めた。
時折声を震わせながらも、言葉に詰まる事も無く、彼女は最後までしっかりと挨拶を果たした。 今この場にいる誰よりも、理央という人間を喪った悲しみを抱えているはずなのに、理央の母は立派に喪主をやり通した。 理央の母は、私のよう逃避に逃げず、ちゃんと理央の死と向き合っているのだろう。 私は一人の人間として、理央の母を心より尊敬した。
理央の母の挨拶を終えて間もなく、司会者の男性は花入れを始めると告げた。 花入れとは何だろうと予想しているうちに、親族席に座っていた男性数名が立ち上がって棺の方へ向かったかと思うと、慎重に棺を抱え始めた。 それから司会者の男性が客間の方に足を踏み入れて「申し訳ない、ちょうどこの場所に棺を置くから、座布団をのけて少し距離を取って欲しい」と参列者に説明した。 私はその説明の通りに座布団を手に取ってその場から移動した。
棺はちょうど客間の中央部に置かれた。 そして、親族の手によって棺の蓋が空けられ、理央のご遺体の全身が私たちの目の前に顕となった。 理央は昨日と変わらず眠るように棺の中で目を閉じていた。 棺の蓋が開けられて間もなく、理央のご遺体を見た参列者の一部から、すすり泣くような声が聞こえ始めた。 それから葬儀屋の男性が、色鮮やかな花々の乗った横長の黒いお盆を両手に参列者の前に現れて「この花を故人の周囲に入れてあげてください」と伝えてきた。
私はお盆から一輪の白い花を手に取り、それを理央の顔の傍に優しく置いた。 他の参列者も次々に花を棺の中へと入れていた。 ふと目についた荒井先生の頬には、一筋の涙が伝っていた。 理央の母を含めた親族らは、理央の生前に使用していたであろう服などの遺品も棺に入れていた。
花入れの終わった後、再び棺の蓋が閉められ、いよいよ出棺の時間となった。 棺の大きさの関係上、棺は玄関からではなく、客間の西側の家周りの狭い通路から数名の男性の手によって運び出され、家の前に待機していたバス型の霊柩車に運び込まれた。
霊柩車と言うと、私の年端も行かない頃に数度見た事のある、まるで神輿のように立派な装飾が荷台に施されている霊柩車のイメージが強かったから、一見とても霊柩車には見えないそのバスの存在を珍しく思った。
そしてこの時、私は疑問に思った。 理央の親族でも何でもない私が、そのバスに乗り込み、出棺及び火葬にまで付き添っていいものかと。 直接理央の母には聞きづらいし、かといって私と同じ立場にある荒井先生には答えの出しようもないだろうから、目の前で着々とバスの出発の準備が整えられつつある中、私はどうしていいものやら焦燥の念に駆られた。
しかしその念は理央の母によってたちまち払拭された。 私がバスの周囲でおろおろと狼狽している様を見て気に掛けてくれたのか、私の傍に理央の母が現れて「もし玲ちゃんさえ良かったら、私たちと一緒に理央の最後を見てあげて」と言いつつ、私にバスに乗り込むよう促してくれた。 私は力強く頷いて「はい」とだけ答え、バスに乗り込んだ。




