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そうして君は僕を知る  作者: 琉慧
第五部 太陽は月を照らして
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第五十話 ほんの些細なこと 58

「荒井、先生?」私は驚きを隠す間もなく先生の名を呼んだ。

「えっ、坂井さん?!」先生も先生で、私がこの場に居る事にひどく驚き、目を丸くしていた。 それから荒井先生は私の左横の座布団に腰掛けて、どうしても都合が付かなくて昨日の通夜には参列出来なかったという無念と、だからこそ今日の告別式には必ず参列するつもりでいたという強い意思を私に明かした。


 理央も私と同じく荒井先生が担任で、私の目によると荒井先生は他の先生よりも生徒目線で物事を見据え、自身の受け持つクラスだけでなく、あらゆる生徒に分けへだてなく親身に接するふところの広い先生だったから、自分の教え子がこうした不幸に見舞われてしまった以上、葬儀には是が非でも参列しなければならないという使命にも似た念を抱いていたのだろう。


 それからしばし荒井先生と葬儀の事に関して話している内に「そういえば、坂井さんは一人で来たの?」と先生がいてくる。


「はい、昨日の通夜には母と一緒に来たんですけど、今日は母の都合が悪かったので私一人で」

「そうだったんだ。 ……ごめんね坂井さん」と、先生は要領の得ない謝罪を私に伝えてきた。


「何がですか」と私は率直にたずねた。


「内海さんの欠席の事。 本当は一昨日おとといの日に先生たちは事情を教えられていたんだけど、生徒には機を見て伝えるから今は何も言うなって上の人に言われててね」


 やはり先生一同は一昨日おとといの時点で理央の死を知っていて、その上で私たち生徒にその事実を隠蔽いんぺいしていたようだった。 けれども、その隠蔽が私たち生徒の為だという事は既に理解していたから、


「いえ、先生が謝る事じゃ無いですよ。 何の心構えもないうちに理央がそうなってしまったっていきなり生徒に伝えたら、下手に不安を助長して混乱を招いていただけでしょうから」と、先生の謝罪は不要だと言い切った上で、隠蔽いんぺいの裏に隠されていたであろう先生各位による生徒への配慮を述べた。


「ありがとう坂井さん、そう言ってくれると少し心が楽になるよ」


 先生は良くも悪くも生真面目な人だから、生徒の為とはいえ、真実をうそぶくという行為に慣れていなかったのだろう。 先の発言を聞いた私の脳裏には、そうした背景がありありと浮かんできた。 そして、ありがとうという言葉は、私も荒井先生に向けて伝えたい言葉だった。


 正直なところ、私は一人で告別式に参列する事に不安をいだいていた。 それは別に式に対するマナーやしきたりをうまく守れるだろうかという不安ではなくて、私自身に対する不安だった。 もし、私が理央の死を完全に受け入れた時に、私は私を制御出来る自信が無かったのだ。


 ここ数日で、理央の死というおりは、私の心の底に沈殿し続けている。 沈殿するさまを見つける度に、私はそれをさらおうとするけれど、深い深い暗所に沈殿した滓はもはやどれほどまでに堆積しているのかさえも判然とせず、下手に浚おうとすれば、私の心にまで傷を負わせてしまいかねない。 だから私は心の底におりが堆積してゆくのを認めながらもどうする事も出来ず、ただじっと見守り続けるしかなかった。


 ただ、溜まりに溜まった滓をさらすべは既に知っている。 私が理央の死を完全に受け入れるだけ(・・)それだけ(・・・・)と言うと、その術のみに全力を注げば良いから複数の選択肢があるよりは余程簡単だと思われてしまうかもしれないけれど、言い方を変えれば、その術以外に私は私の心の滓を浚う術を持っていないという事。 そして、私にとって唯一の術は未だ成功する試しが無い。 こんな事態におちいるならば、たった一つの単純な術よりも、可能性は低けれど複数の選択肢のある方がまだよほど救いがあった。


 問題点はそこばかりではない。 仮に私が理央の死を完全に受け入れる事が出来たとしても、それはいつ何処どこのタイミングで起こるか私にすら読めないし、溜まりに溜まった心のおりが何の心構えも無いまま一気にことごとく取り払われてしまえば、波打ち際の砂を深く掘る事によってその場所により多くの海水が流れ込むが如く、さらわれた滓の空間を埋めるよう別の感情が容赦なく流れ込むだろうから、大なり小なり何かしらの反動が訪れるに決まっている。


 あの時みたく、立っていられなくなるほどの眩暈めまいを覚えるかもしれない。 我を忘れて泣きわめき続けるかもしれない。 流れ込む感情によっては、乱暴にひつぎふたを開け放って『いつまで寝ているんだ、いい加減目を覚まさないか』と理央のご遺体を棺の中から引っ張り出すかもしれない。


 そうした、制御不能状態におちいる可能性のある私を止めてくれる人が、昨日は居た。 それは私の母だった。 しかし今日、母は居ない。 だから私は一人ではなはだ不安だった。 けれども、母と立場はまるで違えど、荒井先生という私の学校で最も信頼している先生が傍にいてくれるだけで、私はある程度の精神の安定を望む事が出来る。


 もちろん、制御不能に陥った私の介抱などを万が一に先生にやらせてしまうかもしれないという後ろ暗さはあるものの、先生が傍に居てくれる事で精神が安定するからこそ、私の心が制御不能になる可能性も幾何いくばくかは減少するだろう。 ゆえに、今日の私にとっての荒井先生は、何ものにも代えがたい大事な存在だったのだ。

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