第五十話 ほんの些細なこと 57
翌日。 その日は朝から生憎の雨だった。 土砂降りではないけれど、傘を差さなければ確実に全身を濡らしてしまうような、冬の時節にしてはしっかりと雨足の太い雨だった。 理央の告別式の進行に影響が出なければ良いけれどと、親族でも無い私が生意気にも葬儀の心配をした。
理央の地元の駅には九時半ごろに到着した。 告別式は十時開始だから、時間としてはちょっと中途半端に早かったけれど、もう一本遅い電車に乗ると十時に間に合わなくなっていたから、要するに私にとって都合の良い電車の運行図表がこの時間帯しか無かったのだ。
私は傘を差しながら、理央の家へと歩を進めた。 学校に登校するという目的以外でこの地に足を踏み入れる事があろうとはこれまで思いもしなかっただけに、歩き慣れている道の筈なのに今日は街の風景が普段と違って見える。
同じ風景でありながら時間帯や日によって街の風景ががらりと変化するのは中々興味の深い現象だった。 ただ今は、そうした現象を心から楽しんでもいられない。 新鮮な風景を眺めてゆく終着点が――今、私の辿り着いた理央の家なのだから。
到着する時間の早かった為か、昨夜の通夜に比べて参列者はまだ数えるほどしか来ていないようだった。 ちょうど二人の年配の男女が受付を行っていたから、あの二人の後に受付を済ませようと決めた私は、受付のテントへと向かった。
昨日母がやっていた通り、芳名帳に住所と名前を記入した後、受付の女性に「告別式の時間まで今しばらくお待ちください」と伝えられ、私は受付の邪魔にならない範囲でテントの下に待機し、告別式の時間が来るまで雨を凌いだ。
先の老夫婦であろう二人も私より少し離れたテントの下で雨を凌いでいた。 それからしばしテントに降り注ぐ雨の音に意識を向けている内に、玄関の引き戸が内部からがらがらと開かれ、外に出てきたのは、理央の母だった。
彼女は傘も差さずに受付のテントの方に真っすぐ向かって来て、老夫婦二人と何やら話をしていた。 話が終わったかと思うと、老夫婦は家の方へと向かっていった。 それから理央の母は私の方へやってきて、「玲ちゃん、今日も来てくれたんだね。 ありがとう」と微笑交じりに私の参列を労ってくれた。
「……はい」
幼い私には到底、理央の母を慰めるような言葉など口に出来るはずがなかった。 それから理央の母は「外は雨も降ってるし寒いから、良かったら式が始まるまで家の中であったかい飲み物でも飲んでいて」と、私を家の中に招いてくれた。
ここで彼女からの厚意を断るのはかえって失礼に当たってしまうだろうから、私は素直に「わかりました。 お邪魔させてもらいます」と答えた後、理央の母に連れ立って家の中へと入った。
玄関を抜けてすぐ左手にある居間へ私は案内された。 部屋の中央に年季の入った深い茶の色をした長卓があって、その卓の上に菓子盆が二つ、電気ポット、その横に数段重ねられた湯飲み、お茶用のティーバックなど、客を持て成す品々が用意されてあった。 その卓を囲うように、数名の参列者らしき人々が腰を下ろして菓子をつまんだり、お茶を飲んだりしていた。 私より先に家に入ったあの老夫婦もちょうどお茶の段取りをしていた。
見知らぬ人と同じ空間で相席するのはちょっと居心地が悪かったけれど、理央の母に「ここ、空いてるからどうぞ。 お菓子も遠慮しないで食べてね」と着席を促されてしまったから座らない訳にもいかず、私は彼女に言われるまま居間の入り口から最も近い卓の前に腰を下ろした。
外は寒かったけれど、部屋の中は暖房がよく効いていて、少し暑さを感じた。 私は羽織っていたコートを脱いで綺麗に畳んでから私の座っていた真横に置いた。 それからお茶を飲んだり目に付いたお菓子を適当に食べたりして式の時間が来るのを待った。
数える限りだと、今この部屋に居る参列者は私を含んで六人。 恐らく理央の母を始めとした親族は告別式の会場である客間に待機しているはずだから、ここに居る人たちは一般の参列者なのだろう。
昨日の受付の人の説明で、参列人数と会場の広さの関係上、場合によっては私たち一般の弔問者は告別式に参列出来ないかも知れないと聞き及んでいたから少し不安だったけれども、昨日の通夜より遥かに参列者は少なかったから、これならば理央の告別式に参列してあげられるのではないかしらと、理央との最後のお別れに立ち会える事を嬉しく思った。
そうしてまたお菓子をつまんで手持無沙汰を誤魔化している内に、玄関のがらがらという開閉音が居間に響いた。 親族が出入りしているのか、はたまた、一般の参列者が訪問したのか、などと推測しているうちに、居間の磨りガラス張りの引き戸が外から開き、理央の母が現れた。 どうやら新たな参列者が訪問したようだった。
理央の母とのやり取りの声調から読み取るに参列者は女性のようで、落ち着いた声色ではあったけれど、声にうるおいと張りを感じられ、磨りガラス越しでも見て取れるすらりと背筋の伸びた体型からして、私を除いた他の年配の参列者に比べると比較的若年のように思われた。 それから参列者の女性は居間に姿を現した。 私はその女性の顔をちらと確認した。 その女性は、私の担任の荒井先生だった。




