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そうして君は僕を知る  作者: 琉慧
第五部 太陽は月を照らして
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第五十話 ほんの些細なこと 56

 私は母の動作にならい、焼香を行った。 当然ぎこちなさはぬぐえなかったけれど、何とか母のやっていた通りに全ての手順を終える事が出来た私は、心の中でほっと胸を撫で下ろした。 それから私は私の横で待機していた母と共に理央のひつぎの前へと進み、例の小窓の開いているすぐそばで立ち止まった。


 あと一歩足を進めれば、理央のお顔が目に映る。 そう思った瞬間、私の胸に動悸が走り始めた。 そうした突発的な動機が出てしまうのも仕方のない事だった。 私にとって理央は中学の入学式の際の奇妙な出会いからずっと行動を共にしてきたまごう事無き親友で、その親友の死に顔をこれから今まさに私の目に映そうとしているのだから、動悸の一つや二つ発生するのは至って自然な事だった。


 しかし、これまで理央の死に実感が持てなかった私も、理央のお顔を見る事によっていよいよ子供みたような逃避を諦め、理央の母やあの葬儀屋の男性や私の母みたく、ようようにして彼女の為に泣いてやれるだろうと思うと、不謹慎ながらも、いち友人として嬉しくもある。


 ただ、この二日間で、理央の死というおりを心の中に溜め込んでしまっているから、ひょっとすると理央の死を初めて耳にしたあの時のように眩暈めまいを起こしたり取り乱してしまう可能性も否定は出来なかったけれど、それでも理央の為に涙を流せるのであれば、多少取り乱そうとも構うものかと、幼い私は後先の不安をまるで考えなかった。


 そうして、まず母が理央のお顔を覗き込むように見た。 理央のお顔を見たであろう母は、口元を手で押さえつつ、嗚咽おえつを漏らしながら涙を流していた。 それから母は涙も止まらない内に理央の遺体へ向けて合掌、礼拝らいはいし一歩後退した。 次は、私が理央のお顔を見る番だ。


 ここに来て、私の足はとても重々しかった。 足の底とたたみが接着されているのかしらと疑ってしまうほどに、なかなか足が前に出なかった。 けれど、ここで立ち止まり続ける訳にもいかない。 こうしている間にも、参列者は次々と焼香を済ませている。 私がもたもたして葬儀の進行をとどこおらせてしまっては申し訳が立たない。


 私は一度だけ生唾で喉を鳴らした後、半歩前へ進み、そうして、少し俯いて、理央のお顔を覗き見た。 理央のお顔をこの瞳に映した途端、あろう事か私は、理央の死を受け入れるどころか、更に逃避の念を強く抱いてしまった。


 一目見た瞬間、何故理央はこのような狭苦しい棺の中で寝ているのだろうと疑問に思った。 私が理央に呼び掛ければ、私の声に呼応し、今にも目を開いて、だらしなく大あくびをていしながらむくりと起き上がり、『ん、玲、何悲しそうな顔してるのさ』と呑気のんきに言ってきそうなほど、私の目には理央がただ眠っているようにしか見えなかった。

 理央の透徹とうてつな白い肌に、すやすやと眠り続けているかのような安らかな寝顔に、私はただただ美しさを覚えさせられた。 それと同時に、その美しさに何故だか言葉に仕様の無い悲哀も覚えさせられた。


 そうした様々な感情が血潮と共に私の身体中の血管を駆け巡っている最中、思わず、理央の名を呼んでしまいそうになる。 喉元まで出かかったその言葉を、私は咄嗟とっさに飲み込んだ。 何だか頭がいやにふわつく。 まるで夢の中にいるかのよう非現実的な感覚に私の五感を丸っきり支配されているような心持がする。


 それからふいと理央のお顔から首元へと視線を移すと、理央の首元には包帯が巻かれていた。 葬儀屋の男性の話によると、理央は自身の頸動脈けいどうみゃく剃刀かみそりで切ったと言っていたから、きっとその傷を隠す為の包帯なのだろうという事は冷静に理解出来た。


 そうして、理央のお顔を眺め終えた私は、母のしていたよう理央のご遺体に向けて合掌、礼拝し、母と共に廊下を抜けて家を出た。 それから間もなく理央の家を後にして、行きと同じく母と手を繋ぎながら駅までの帰路にいた。 正直に胸の内をさらけ出すと、一般の参列者による葬儀とはこれほどまでに淡泊なものなのかと、拍子抜けを食らった。


 これまで私の中の勝手な想像としての葬儀とは、一時間以上は葬儀に参列し、葬儀の雰囲気はもっと重々しく、息も詰まるほどに厳粛げんしゅくで、その空気の中で故人をしのびながら別れを惜しむものだと思っていた。

 もちろん葬儀会場が自宅という関係上、全員が全員一度に葬儀会場である客間に入る事が出来なかったからこその都合もあるだろうけれど、足早と言うべきか、何というべきか、はばからずに言ってしまうと、圧倒的に故人をしのぶ時間が足りなかった。


 私が理央のご遺体と直面した時間はせいぜい三〇秒にも満たない短い時間だったから、不満と言ってしまうと言葉が悪いけれど、結局私は葬儀を終えてもなお理央の死を未だ受け入れられずにいたものだから、心と頭がふわついたままで、一向に地へ足を下ろせずにとてももどかしい気持ちを抱き続けている。


 これが私にとって最後の、理央とのお別れなのだろうかと思うと、その事実は到底受け入れられるものではなかった。 このまま私の納得のいかないまま理央の葬儀の全てが終わってしまったら、私は二度と理央の死という現実を受け入れられないように思われた。


「……嫌だ」


 覚えず口からこぼれた私の思いは、私の足を立ち止まらせるには十分過ぎるほどの質量を持ち合わせていた。


「玲、どうしたの?」と、突然立ち止まった私を怪訝けげんそうに見つめる母をよそに、私は母と繋いでた手をほどき、理央の家を出発して間もなく再度そこへと駆け戻り、向かったのは、受付だった。


「あのっ、明日の告別式って、何時から始まるんですか」


 息も整わないままに、私は受付の女性に飛び掛からん勢いでそうたずねた。 明日は土曜日だから、学校の心配はしなくていい。 たとえ明日が平日だろうと、学校を休んででも私は理央の葬儀に参列するつもりでいたのだけれど。


「明日の告別式は午前十時よりこの場所で行われます。 参列人数と告別式会場の広さの関係上、場合によって一般の弔問ちょうもん客は告別式に参列出来ない場合がございますが、その際はどうかご了承下さいますようよろしくお願い致します」と、取り乱し気味の私とは違って受付の女性は顔色一つ変えず冷静に私の問いに答えた。


「玲っ! もうっ、いきなり走り出すんだからびっくりするじゃない」

 私が受付の人と話を終えて間もなく、私の後を追って来た母に少しとがめられた。


「ごめんお母さん。 ……明日の理央の告別式も出てあげたいんだけど、いいかな」と私が母に伝えると、母は切なそうな顔色を覗かせながら私を抱き締め、「そっか。 玲は優しいんだね。 玲が理央ちゃんの為にそうしたいなら、そうするのが一番だよ」と言ってくれた。


 それから私たちは再び帰路に就いた。 その途中で母は「本当はお母さんも理央ちゃんの為に告別式に出てあげたいんだけど、明日はどうしても外せない用事があるから玲一人で出る事になるけど、大丈夫?」と私にたずねてきた。


 当然、通夜とは違って告別式の方にも相応の作法があるだろう。 告別式の一通りの流れは帰りの電車の中で母に聞くとしても、今日のように目の前で母の作法をならう事は出来ないから、一人で葬儀に出なければならないという不安や心配はもちろん私の胸に蔓延はびこっている。

 けれども、たとえ作法を間違える心配があろうとも、一人で不安だろうとも、私は理央の死を受け入れる最後の機会に背を向けるつもりなど更々無かった。


 明日の告別式で私は理央の死を受け入れ、その上で理央の為に泣いてあげるのだという決意を胸にこしらえつつ、「ちょっと心細いけど、理央との最後のお別れはしっかりしておきたいから、一人でも行くよ」と答えた。 母は「そっか。 玲は本当に理央ちゃんの事が好きだったんだね」と言いつつ、わずかに微笑を浮かべながら私の頭を撫でてくれた。


 理央の事が好きだった(・・・)――母の口ぶりを聞いて、もう、理央の存在は過去のものになりつつあると察してしまった私は、うんともすんとも言えなくなって、ただ黙って俯いた。 いつしか理央の存在が私の中からも消えてしまいそうで、たまらず怖くなった。


 ふいと理央のお顔を思い出し、理央はいつ目を覚ますのだろうと、りもしない荒唐こうとう無稽むけい現実逃避もうそうに心をき立てられては、一人むなしくなった。 この世界が終わるまで、明日という日など一生来なければいいのにと、未来さえをも否定した。

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