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そうして君は僕を知る  作者: 琉慧
第五部 太陽は月を照らして
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第五十話 ほんの些細なこと 55

 母が駅に到着したのは、ちょうど通勤通学の人々がせわしなく往来し、すっかり駅構内が人通りで賑わしくなった一七時半ごろだった。 防寒の為か、母は膝下まである丈の長い黒のコートを身に纏っていた。 その下に喪服を着用しているのだろう。


 普段の母は明るめな服飾を好んで身に着けているから、まさしく喪に服しているであろう母の浮かない表情と、葬儀用のいかにもな服装を目の当たりにした私の心にも、いよいよこれから理央の葬儀へと向かうのだという一種の覚悟が芽生えてくる。


 事前に母から聞いていた話によると、葬儀に対する学生の服装は在学中の学校の制服が正装だという事で、私の場合は母のよう別段の服装を用意する手間も無かった。 しかし母が言うには靴下の白色はあまり見栄えが良くないという事で、母が家から持参した黒の靴下を手渡された私は、駅のお手洗いの個室で靴下のみを履き替えた。


 そうして葬儀に向かう準備を整えた私は、母と共に理央の家へと向かった。 駅から理央の家までは徒歩で十分掛かるかといったところで、難無く十八時前には到着するだろうと予想しつつ、私は母と手を繋ぎながらあゆみを進めた。


 予定通り理央の家に十八時前に着いた頃、空にはすっかり夜のとばりり切っていた。 家の周囲には喪服に身を包んだ様々な年代の男女たちが十数人ほど集まっていて、一部の人たちは家の敷地内の庭に張られたテントの下へ設置されていた長机の前に一列になって整列していた。 母の話によると、その場所は受付で、そこで芳名帳と呼ばれる冊子に自身の住所や名前を記入したり、香典を納めたりするのだと言っていた。


 私は母と連れ立って受付の列に並び、受付を済ませた。 その際、受付を担当していた女性に、室内の広さの関係上、一般の弔問ちょうもん客全員を一度に部屋へれる事は出来ないから、一般弔問客はご遺族らの焼香が終わった後に葬儀の部屋へ入り、焼香を終えたのち、混雑を防ぐ為、ふたたび家の外へと出てください。 なおご遺族の意向により、通夜振舞いは親族及び身内のみで執り行わせて頂く予定ですのでご了承下さい。 という旨を簡略に説明された。


 おそらく私たちが理央の家に辿り着いた時点で家の周囲に待機していた人たちは、一般の参列者であったのだろうと想像した。 私と母も既に待機していた参列者の中に混じり、葬儀が行われるのを待った。 そうして家の中からお坊様の読経の声とおりんの音が聞こえ始めた。 どうやら葬儀が始まったようだった。


 それから十分だか十五分だか過ぎた頃、葬儀関係者らしき男性に、これより一般弔問(ちょうもん)客の焼香を始めますので、順番に中へお入り下さいという指示を受けた私たちは、葬儀会場である家の方へと向かった。


 玄関周りには黒と白の縦模様が規則的に交互に並んだ、いわゆるくじらまくが張られており、玄関前の両脇には『御霊燈ごりょうとう』と書かれた提灯ちょうちんが飾られてあった。 それから玄関の真隣の壁に『故 内海理央 儀 通夜葬儀式場』と書かれた案内板が立てかけられているのを見た私は、ああ、やはり理央はもうこの世には居ないのだという、彼女の死に対する幾何いくばくかの真実味を眼前に突き付けられたような心持を得た。


 参列者の行き来に対する利便性の為か、玄関の引き戸は取り外されていて、玄関というものは扉があってしかるべきだという思いが私の中にはあったから、何だか奇妙というか違和感というか、そうした不思議な感覚が私の頭の中をふわついていた。 それから列の流れが進み、私と母は家の中へ足を踏み入れた。 焼香の順番を待つため私と母は廊下で列を成していた参列者の最後尾に並んだ。


 そのあいだ、私の鼻につんと通り過ぎた少し癖のある独特な匂いは、私のこれまで嗅いで来たどの匂いにも分類されていなくて、それが葬儀に使用されている線香か何かの発する匂いだという事はたちまち理解したけれど、まるで鼻腔を通り過ぎてからも匂いの成分が鼻の中にずっと残り続けているかのよう強烈な匂いに、これが葬儀のにおいなのかという事を、葬儀経験の無い幼い私はこれでもかというほど実感させられた。


 列が前へ進み、葬儀の執り行われている客間に近づくにつれて、例のにおいと、お坊様の読経を読み上げる低い声と、耳の底を打つおりんの音の感じ方が明瞭めいりょうになってくる。 そうして、ようように客間へと辿り着いた私の目に第一に飛び込んで来たのは、理央の遺体の入れられているであろう白いひつぎだった。 棺はふたの方に小窓が付いており、今はそれが全開している。 そこから故人の顔を見るという事なのだろう。


 それから少しずつ全体像が見えてきて、葬儀という厳粛げんしゅくの場でありながらも、美麗を感じさせるほど華やかに飾られた花祭壇や、その花祭壇の中央辺りに置かれた理央の生前の写真が目に入る。 理央らしく、溌剌はつらつな笑みを浮かべていた。 ただ、写真を注視している内に、私の知っている理央よりも少し若い事に気が付き、恐らくそれが数年前だかに撮影されたものなのだろうと一人納得した。


 次に、焼香という行いをする為の台の置かれた場所よりやや後方の、廊下側から最も離れた障子の前に、理央の母を見つけた。 ややうつむき気味の状態からでも見て取れる悲痛な表情は、心臓を手で直接締め上げられているのかと思うほど、私に息苦しさを覚えさせた。


 焼香は母が先におこなった。 焼香の仕方について、理央の家に辿り着くまでの道のりの途中で母から「お母さんの真似をすればいい」と言われていたから、私は母の動作に注視した。


 ――まずご遺族である理央の母及び親族の座席に向けて一礼し、次に祭壇へ向かって合掌、礼拝らいはいを行う。 粉末状のこうを指でつまみ、香炉へと落とし入れる。 この動作は二回続けて行われた。 それから合掌、礼拝を行い、最後に再びご遺族に向けて一礼する。


 ――行う事は極めて単純だけれど、葬儀の場は初めてであり、とりわけ香炉に粉末状の香を落とし入れる動作が特殊だったから、母のよう全ての動作を完璧にこなせる自信は無かった。 出来る限り母の動作にならいつつ、ご遺族への一礼だけは欠かさないよう努めようと心に決めて間もなく、いよいよ私の焼香の番が回ってきた。

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