第五十話 ほんの些細なこと 51
理央の家の前まで来ると、家周辺を往来していた人々の忙しないさまが殊更に感じ取れた。 ざっと確認出来ただけでも五人から六人くらいの、年代で言えば若い人から年配の人まで幅広い年代の男性が居るようだった。
私は庭に足を踏み入れたものの、ちょうど玄関近くを数名の男性が往来していて、今玄関に近づいてしまうと何かしらの作業の邪魔になるんじゃないかしらと憚ってしまい、結局その場でしばらく立ち呆けていた。
すると玄関口に理央の母が現れて、玄関周辺を往来していた一人の男性と何やら立ち話を始め、彼女と会話していた男性は数度首肯を果たした後で家の中へ入っていった。 理央の母はそのまま玄関前に残った
今日の仕事は早く終わったのか、はたまた何かしらの用事で休みだったのだろうかと、この時間帯に理央の母が家に居る事を珍しく思いつつ、行くならばこのタイミングしかないと悟った私は、ちょっと早足気味に玄関口へと向かった。 玄関口に近づく前に私の存在に気が付いたのか、私が声を掛ける前に理央の母はこちらを向いて私の近づいてくるのをじっと見ていた。
「こんにちは、おばさん」
私は軽く会釈しながら理央の母に挨拶した。
「……玲ちゃん、どうしてここに?」
理央の母は何故だかひどく困惑している様子だった。 先の言葉から察するに、私の訪問は彼女にとって意想外だったように思われる。 ひょっとすると今まさに取込み中でお邪魔してしまったろうかと、途端に居心地が悪くなった。
「昨日から理央ちゃんが学校を休んでて、学校の方にも理央ちゃんが何で休んでいるのか連絡が無かったみたいでちょっと心配になって様子を見に来たんですけど、いま理央ちゃんって家に居ますか」
しかしここまで来たからにはもう引き返せない。 多少迷惑がられようとも、私は理央の安否を知るまでここを離れるつもりはなかった。
「……」
私の言葉を耳にしてから、理央の母は口を噤んで目線を下げた。 その一連の態度に、私は見覚えがあった。 今日、荒井先生が見せた、あの不可思議な態度と丸っきり同様だった。 つまり、理央の母も、私の知らない理央に関する『何か』を知っている。 そう確信したと同時に、私の身体に流れる血潮が見る見るうちに温度を無くしてゆくような感覚に襲われた。
「理央ちゃんに、何かあったんですか」
自分でそう聞いておきながら、私は理央の母が私の問いに対し返答しなければいいのにと願った。 真実も知らない内に、足が震えてくる。 聞きたくない。 知りたくない。 今すぐこの場から逃げ去りたくてたまらなくなった。 けれど、震える足は最早私の言う事など聞いてくれるはずもなく、私は間もなく理央の母から語られる、理央に起きた『何か』と嫌でも直面しなければならなくなった。
「……玲ちゃん、理央は、理央はね……ううっ……昨日、浴室で……」
「……? おばさん?」
「……うぅ――あああああっ!」
理央の母は私の目の前で突然取り乱し、まさしく文字通りその場に泣き崩れた。 私は、目の前で何が起こっているのか、さっぱり理解出来なかった。 私は茫然とその場に立ち尽くし、号泣する理央の母を見ていた。
するとその内に、先ほど理央の母と会話していた五十代くらいの恰幅の良い男性が家の中から慌てた様子で飛び出てきて、理央の母を介抱しつつ彼女を家の中へと連れて行った。 それからしばらくしてその男性がまた玄関口に現れたかと思うと、今度は私の方を見て「君は、この家の縁の人かい?」と私に訊ねてきた。
「……いえ、私はこの家に住んでる同級生の友達で」
男性の相好がちょっと険しかったから、私は萎縮しつつそう答えた。
「そうだったか。 ……あんまり俺の口から言いたくはないけど、あの人があの調子じゃあ多分自分の口から伝えられないだろうし、あの人からも君に本当の事を教えてやってくれって頼まれたから、教えるよ」
男性は訳ありな気味で、理央の母が私に伝えようとしていた事を私に話すと言った。 この時点で私は、今日もしくは昨日の時点で理央に起こった『何か』の正体に目星を付けていた。
けれど、そんなものを私の心に認める訳にはいかなかったから、私は頑なにその正体を受け入れる事を拒否した。 そうであって欲しくないと強く願った。 何かの間違いだと信じて止まなかった。 けれど、そうした私の事実を受け入れたくないという我儘な意思は、次の男性の言葉によって悉く崩れ去った。
「いいかいお嬢ちゃん、落ち着いて聞くんだ。 この家の一人娘の内海理央ちゃんは、一昨日の深夜、亡くなったんだ」
男性の言葉を聞き終えて間もなく、私は確かに、私を取り巻き形成していた世界の崩れる音を耳にした。




