第十二話 忘却 1
「おはようございます、ユキくん」
翌日の登校間もない朝一番の教室内で、僕は耳を疑った。 僕の姿を見るなり挨拶を交わしてきたのは古谷さんだった。 勿論、彼女から声を掛けて来たという意想外な展開にも驚かされてはいるけれど、それ以上に信じられなかったのは、彼女が僕の事をユキくんと呼んだ事である。
「お、おはよう、古谷さん」
ひとまず挨拶は返したけれど、まるで状況の整理も付かず些か困惑していた為か、僕の声調は我ながら酷くぎこちない。 それから自席に着いた僕は改めて先の疑問についての思考を巡らせ――そうして出てきた仮定は都合二つ。
一つは、古谷さんが僕の名前を把握していなかったという推測で、なるほど知らない人からすれば僕の名前を優紀(ゆき)と読んでしまうのも致し方ない間違いで、実際僕は小中学のいずれでも名前を読み間違えられた経験がある。 だから彼女も例によって僕の名前を読み間違えているのではという結論に至ったのだ。 しかし仮にそうであったとしても、彼女が昨日今日の付き合いで僕の事を名字でなく名前で呼んだという突拍子さ自体にはまるで要領を得られずにいたのだけれど。
その要領を補足する為に導き出された二つ目の仮定は、一つ目の仮定と違って推測というよりは憶測に近く、古谷さんが誰かしらに何かを唆されて、僕の名前をそう呼んでいるという言いがかり的なものであった。 誰かしらとは濁したけれど、僕の中では既に被疑者の目星が付いていて、しかしまさかそんな筈はと否定の気味ではあるものの、その可能性が無いとも言い切れない。 きっと彼の普段の素行に鑑みた思考がその後押しをしているのだろう。
ただ、二つの仮定を割り出したところで僕に真相を確かめる術は無かった。 何故知り合って間もない僕を名字でなく名前で呼んだのかなどという無粋な事を彼女に直接聞き質す訳にもいかないし、かと言って憶測の域を出ないままに彼を犯人扱いするのも良心が咎めるというもので、結局僕は最初の挨拶っきり古谷さんと顔を合わせる事すら出来なかった。
「うーっすユキちゃん」
「おはよう三郎太」
そうして、僕が悩みあぐねている内に現れたのは三郎太だった。 ――先述した、目星を付けている被疑者というのは彼の事である。 が、よくよく考えてもみると、そもそも登校時間の遅い彼が今日古谷さんと接触する時間は無かったに等しく、昨日は昨日で三郎太と彼女が会話していたという場面も目にしていない事から、やはり二つ目の仮定は憶測の域を出ない僕の偏見であったとして、胸中であれど彼を犯人扱いしてしまっていた事を深く反省した。 三郎太は登校してきたその足で自分の座席である僕の真後ろの席へと向かった。
「あ、三郎太くん、おはようございます」
「おっす千佳ちゃん。 てかみんな朝来るの早ぇよなぁ」
「電車通学だったら電車の時間の都合もあるので、その辺が関係してるんじゃないかな?」
「あー、そっか、電車組は来る時間固定みたいなもんだしなぁ、そういう千佳ちゃんは電車?」
「うん、東方面から一駅の距離だけどね。 三郎太くんは?」
「俺は自転車ー。 家から十分ぐらいで着くもんだから余裕かましてたらいっつもギリギリになっちゃってさー。 ――って、ユキちゃんさっきから何をそんなに驚いた顔してんだ?」
古谷さんと喋っていた三郎太が、ふと僕の顔を見て訝しそうにしている。 彼の口ぶりからするに、どうやら僕は覚えず二人の会話に釘付けになり、ひどく驚いているらしかった。 それもそのはずだ。 昨日まで接点の無かった筈の二人が今日になって数年来の友人の如き親密さで会話しているのだから、目も丸くなるに決まっている。
「いや、二人ともそんなに仲良かったかなって思って」この際二人の接点を知るには都合が良いだろうと、僕は正直に先の驚倒の理由を明かした。
「あーそっか、ユキちゃんは知らなくて当然か。 実は昨日ユキちゃんが帰ったあと千佳ちゃんが俺に声掛けて来てさ、何でもユキちゃんの事がもっと知りたいから俺が知ってるユキちゃんの事教えてくれって頼まれてな、その時に千佳ちゃんと連絡先交換してたんだわ。 で、昨日の夜、ユキちゃんの事について千佳ちゃんと色々話し込んでたらすっかり打ち解けちゃったってわけよ」
「ちょっ、三郎太くん! その話は内緒にしといてって」
「まあいいじゃん、遅かれ早かれユキちゃんにも知れる事だったし、それに男ってのは女の子のそういう健気なところに弱いもんだからさ、今のうちに見せといても損は無いっしょ」
「それはそうかもしれないけど……言わないでって約束してたのに。 もう」
明かされまいと信じていた古谷さんと三郎太との秘密事が僕に知れてしまった事により、彼女は顔を赤らめつつ照れ隠しのつもりか自身の髪を何度も撫でている。 しかしこれで二人の接点が判明し、それと同じくして一度は棄却した二つ目の仮定が確定のものとなったので、僕はのそりと真相究明に乗り出した。




