第二話 呼出 1
「このように、数学的に正誤の判断が明らかに定まる問題の事を命題という。 それでは次の問題の中で命題に当てはまるものはどれか。 今から黒板に書く九つの選択肢の内どれか一つが正解だから考えてみろ。 後で誰かに当てるからな」
――人は誰しも『愛』という問いに対し、自分なりの答えを持っているのではないだろうか。 少なくとも僕はそう思っている。 その解は言葉であったり、行動であったり、或いは沈黙という解を持つ人も中には居るのかも知れない。 けれども『愛』を解こうとする僕の心には、物心ついた時から握り続けたペンを尻目に、虫の走ったような落書きのみがつらつらと綴られているだけで、未だ納得の行く解は書かれていない。 そして僕は今日も、落書きを一つ増やしてしまった。
およそ『愛』とは形而上のものなどではなく、心に蔓延る生きもののようなものではなかろうか。 こちらの都合などお構いなしに、時に身勝手に暴れて動悸を早めてくると思えば、時に陰湿に纏わり付きながら胸をぎゅっと締め付ける。 まるで頑是無い幼子のように。
「じゃあ綾瀬、立って答えてみろ」
「はい」
僕はそうした理屈の通じない分からず屋をも納得させる答えを、いつか出せる日が来るだろうか。 今はまだ、その答えは出せそうにないけれど、僕が僕として在り続ける為には必ず解かなければならない問題である。 だから、いつしかその解が見つかった時には、声を大にして私に言ってやるつもりでいる。 これが、そうであると。
「アイです」
愛の方程式の解も、教科書に書いていてくれれば世話が無い。
―幕間― 『選択肢』 完
あれから五日ほど過ぎた。 週も跨いだ。
僕達のクラスはつい先ほど数学の授業を終えたところで、今は休み時間の真っ只中。 僕は竜之介と会話していた。 彼は僕の机の真正面に立ち、腕を組んでいる。 彼は上背があるから椅子に座っている僕と喋る時は自然、俯き気味になる。 僕達の関係を知らない人から見れば、強面な彼の風貌も相まって僕が彼に叱られているように見えてしまうかも知れない。
「しかしほんまあの数学の先生の選択肢いっつも多すぎやろ、なんやねんAからIまでとか。 普通選択肢言うたら三つか四つぐらいなモンやろ。 分かり難ぅてしゃあないわ」
先程終えた数学の授業内容を語っていた竜之介が、先生の出す選択肢が多すぎると愚痴をこぼしている。
「まあ、今までにないパターンの先生だよね。 確かに多すぎだとは思うけど、あれはあれで結構思考力が身につくし、ただ教科書の内容を喋ってるだけの先生よりはよっぽど先生してるんじゃないかな」
僕が先生の授業形式を弁護するような口ぶりで竜之介を諭すと、彼は「それもそうか」と些かの不満は覗かせつつも数回頷き、自分を納得させたようだった。 それから再び先の数学の授業内容について語っている内に、授業開始のチャイムが教室に鳴り響いた。
「お、もうそんな時間かいや、ほんじゃまた後でな」と言い残して、彼は僕の机の前から移動し、三列目最後部の座席へと向かっていった。 それから僕の右横、四列目最前列の席には今し方竜之介が向かった座席に元々居た男子生徒が腰を下ろしている。 彼らの席が入れ替わったのは、お互いに席を間違えたという訳でもなく、かと言ってこの五日間の間に席替えが行われた訳でもない。
――遡ること前週。 僕は竜之介の抱いていた例の疑懼を払拭する為、とある行動を起こしていた。
例の疑懼とは、その当時、竜之介の後席に座する古谷千佳という女子生徒が彼の巨躯の所為で黒板が見づらく迷惑しているのではないかというものであり、それからしばらく彼女の動向を授業中怪しまれない程度に探っていたけれど、やはり以前に見た通り、それなりの頻度で上体を左右にずらしながら黒板の文字を確認していたようだった。
僕でさえ竜之介の後席で授業を受ければ、黒板の上部や左右寄りの文字ならば別段頭も身体も動かさず文字を見る事が出来るだろうけれども、真正面の文字は彼女みたく体をどちらかに傾けなければ見る事は叶わないだろう。
加えて、古谷さんは他の女子生徒と比べて小柄なほうだ。 彼女の身長と竜之介の座高を比較しても差が判別し辛い程である。 僕の目測ではあるけれど、彼女の身長は一五〇センチを少し上回る程度ではないだろうか。 そうした彼と彼女の体格差に鑑みても、竜之介の巨躯は古谷さんの受講に支障を来たしている事は明々白々であった。
そして、この問題を解決するにあたって一番効率的な方法を僕は既に考案していた。 それは "古谷さん本人が担任の先生にこの旨を伝え、自分なり竜之介なりの席を替えてもらう" という単純明快なものである。 だけれど僕はこの案を早々に諦め、放棄していた。 何故なら、席替えから一週間経った今もなお、彼女本人はこの問題を解決しようとしていなかったからだ。
授業中、目の前に立ちはだかる壁と対峙しながらも健気に立ち向かう彼女のひたむきな姿は、なるほど周囲に同情を覚えさせる事は容易い。 しかし、未だ子供という分類であれど僕達は高校生という身分であり、いつまでも親や先生が勝手に何でも取り入ってくれる訳でもなく、時には自分自身で動かなければ解決しない問題に直面する場合もあるだろう。
だからと言って、別に古谷さんの在り方を責めるつもりは微塵も無い。 人にはそれぞれ得手不得手というものがあるのは自分なりに理解しているつもりだ。 彼女の場合、直面の障害に幾度も悩まされながらもそれを排除しようともしなかった消極的な態度に鑑みて、恐らく彼女は自己主張が苦手な性質なのだろうと僕は推察していた。
ならば、誰が彼女を救ってやれるというのか。 授業中に彼女の行動を察したいずれかの先生だろうか。 はたまた気の利いたクラスメイトかも知れない。 しかし、いつ何時に起こるやも判然としない第三者の善意に期待してしまうのは些か呑気が過ぎるだろう。 彼女の不憫さをこの両眼で確と目の当たりにしてしまった以上、僕はそこから目を背けたくは無かった。
今、彼女の不憫から目を逸らしてしまったら、僕は僕自身を許せなくなってしまうような予感がしたからだ。 だから僕は心に決めた。 古谷千佳という女子生徒を助けてあげようと。
かくして出所不明の使命感はたちまち僕の心身に献身の血を巡らせたのである。
同日、奇しくも視力の悪さ故に最後部座席で悩んでいる男子生徒がいるという情報を耳にした僕は古谷さんの事情は伏せたまま目当ての生徒に話を持ちかけた。 内容としては『授業中に黒板が見え辛くて困っているのなら、最前列に位置する神竜之介という生徒と席を替えないか』という簡単なものだった。 それから彼はしばし思案の素振りを見せた後、もし席を替われるのなら是非にもそうしたいと承諾してくれた。
次に竜之介にもこの経緯を説明した。 自身の身体の大きさを他の誰よりも理解しているが故に以前から最前席に居座る事を気に掛けていた事も助けて、その気遣が解消されるならば喜んで引き受けようと、彼も二つ返事で席替えを快諾してくれた。
本来であれば竜之介に断りを入れてから最後部座席の生徒に話を持ち掛けるのが筋だという事は予め理解していたけれども、竜之介自体も以前から自身の席の位置に対し後ろ暗さのようなものを感じていたと話していて十中八九この案に前向きな姿勢を取ってくれるであろう事を僕は信じていたし、そもそも最後部座席の生徒が席を代わりたいと言わなければこの案自体が成立していなかったから、先に彼へ話を持ち掛けたという次第だ。
そうして、ここまではとんとん拍子で事が運んだはいいけれど、いくら両者間で納得し合おうとも、いち生徒の一存で手前勝手な席替えなど許される筈もなく、以降この特殊な席替えが成立するかどうかは担任の先生の裁量次第であった。
この席替え計画にあたって僕が一番気にかけていた問題でもあったけれど、どうやらその懸念も僕の行き過ぎた杞憂だったらしく、席替え計画を実施した翌日、朝のホームルーム終了後に今回の席替え計画に携わった三人で担任の先生の元へ行き、事情を説明するや否や先生は「そういう事なら」と、この件をあっさりと受理してくれた。
同日、担任の先生が受け持つ授業の際に先生から軽い説明がなされた後、僕の計画した小さな席替えは行われた。 当然、正式な席替え以外に席を変える方法があるならばと先の特例を真に受け、とある男子生徒から冗談半分で席替えを求める声も上がった。 しかし、
『なら、お前も前に来て授業を受けるか? それなら席替えを認めてやろう。 ただし、授業中寝てたら叩き起こすからな』
思いがけず先生に皮肉を言われたものだから、先の勢はどこへやらといった気味で、彼はぐうの音も出せず俯いて閉口してしまう。 かくいう彼は居眠りの常習犯であった。
かくして竜之介の疑懼から始まった問題は、無事解決を迎えたのである。
因みに、古谷さんにはこの件について何も伝えていなかった――いや、伝える必要が無かったと表現する方が正しいだろうか。 もし竜之介と席替えを行った男子生徒の存在が無ければ古谷さんに協力を仰ぐ事も致し方無かったろう。 けれども今回は事を動かす条件が上手く揃っていて、彼女に要らぬ気遣を覚えさせるまでもなく事が片付いたという訳だ。
だから、彼女は何も知らなくていいし、一つの気遣いも覚えずにこれからを過ごしてくれれば良い。 自身の与り知らないところで偶々あのような出来事が起きて、眼前の問題に悩まされる必要が無くなった。 彼女にはその程度の曖昧な認識を持っていてくれれば良い。 それで僕は満足だった。
――そして今日の昼休み。
「あの、綾瀬くん」
「ん、どうしたの古谷さん」
「少し、お話したい事があるんですけど、今から大丈夫ですか」
竜之介、三郎太と共に食堂へ向かおうとしていた間際、僕は教室で意外な人物に引き止められた。
身長差故に見下ろした彼女の顔とは実を言うと初めての対面で、ショートボブ系のヘアスタイルにしては少し長めの前髪が目をも覆い隠そうとしており、おずおずと手に近づこうとする小鳥のような彼女の自信の無さを表現しているようにも感じ取れる。
「ほんだら俺らは先行っとくから後で色々聞かせてくれや優紀、おら行くどサブ」
「ちょっ、待て待てあんま引っ張んなって! 俺を差し置いてずるいんだよユキちゃぁ~ん!!」
竜之介が気を利かせてくれたらしく、この件について色々と突っかかってくるであろう三郎太を早々にフェードアウトさせてくれたようだった。 しかし竜之介は竜之介で何か勘違いをしていたようだけれど、今は余計な詮索に思考を割いている暇も無く、差し当たって当面の状況を整理する為に僕は、
「ごめんね友達が騒がしくって。 それで、話っていうのは」
努めて冷静に彼女の動向の探りに入った。
「ここじゃちょっとあれなので、実習棟の方で聞いてもらってもいいですか」
「うん、いいよ。 じゃあ行こっか」
教室で気軽に話す内容では無いという事を先に知れただけでも事前の心積もりを拵えておけるから、僕にとっては大きな収獲だった。 何の心積もりも無い内によもや竜之介が匂わせるところの事情を伝えられたとなれば、誰しも動揺を禁じえないだろう。
頭の中では多様な思考を巡らせつつも、決して表には出すまいと平静を装い、僕は彼女と共に実習棟へと向かった。