第五十話 ほんの些細なこと 49
「……」
私は何も言えなくなった。 私は自分の発言が怖くなってしまった。 私がいい加減な事を言って理央に誤った道を歩ませてしまえば、その度に私は理央の心を傷付けてしまうだろう。 なればこそ、私は理央の容赦を当然の権利のよう受け入れてはならないし、ましてや、今回の件においての理央からの感謝などは立ちどころに突っ返さなくてはならない。
「ねぇ、玲」
「……うん」
「私はもう、男の人に好意を向ける事は出来ないと思う」
「……」
「でも、玲以上に私の性質を理解してくれる女性が今後現れるとも思えない」
「……」
「私にはもう、玲しか居ないんだ」
「……」
「もう一度、私の恋人になって。 玲」
そう言っておもむろに私を見上げた理央の顔からは、普段の活発さや闊達さなどは微塵にも感じ取れなかった。 早退してからも一人で泣いていたのか、下瞼がひどく赤らみ、口元は笑みの欠片すら無く、上下の唇を口の内部に少し巻き込ませ、何かを必死に我慢しているような表情を取っていた。
ここまで錯乱した理央を見る日が来ようとは、夢にも思わなかった。 とても見ていられなかった。 ただただ居た堪れなかった。 思わず目を反らしてしまいたくなる。 けれど理央の私に訴え掛ける圧倒的な目力は、私が僅かたりとも目を反らす事すらも許してくれなかった。
そうして私はしばし理央の悲哀に満ちた瞳に束縛されていた。 その内に理央は涙を流し始め、ついには嗚咽まで始まってしまった。 理央の精神はもう崩壊寸前だった。 その崩壊を辛うじて押し止めているのはきっと、私という存在に違いない。 だからこそ私がここで理央の精神の崩壊を阻止せねばならなかった――
「……ごめん、理央」
――しかし私の口から出たのは、私の心に抱いた使命とは裏腹に、理央にとって残酷極まりない拒否の言葉だった。
「理央が今ひどく心を痛めてる事は分かってる。 今の理央を支えられるのは私しか居ない事も理解してる。 だから、理央が今日一日私と一緒に居たいって言うならここに居る。 明日以降も一緒に居てって言うなら学校も休んで理央の調子が戻るまでずっと傍に居る。 ……でも、それはあくまで理央の友達として。 私はもう、理央の恋人として、そういう事は出来ない。 だから、ごめん、理央」
私はそう言い終えたあと、長らく抱擁されていた理央の腕を優しく引き離し、理央の前に立った。 理央は半ば放心しており、その場に立っているのがやっとの状態だった。 今すぐにでも私の方から理央を抱きしめてやりたい。 けれど、それをしてしまったら、きっと理央は更に私という存在に依存してしまうだろう。 それは理央の為にも、そして、私の為にもならない。 だから今は心を鬼にして、理央の私に対する依存の糸を断ち切らなければならなかった。
「……そっか。 そうだよね。 ごめん、玲。 無理言っちゃって。 卑怯だよね、私。 あの時は玲の幸せを願うって格好良く言ったのに、やっぱり私は玲の事が好きで、玲にちゃんとした将来像があるっていうのに、私はそれを分かってて干渉しようとしてた。 でも、玲が一時的な情に流されずに私を拒んでくれて、良かった。 玲が自分の意思を貫ける人で、良かった。 やっぱり、私の目に狂いは無かった。 さすが、私の友達だねっ」
そう言い終えた後、理央は白い歯を見せて目いっぱい笑みを浮かべた。 その目にはうっすらと涙が滲んでいた。 不謹慎にも私の目には、この理央の表情が一枚の絵画のよう、とても美しいものに見えた。 それでいて、とても儚く悲しいものに見えた。 私は理央の美しくも儚げな表情に見とれたまま、言葉という観念すらも忘却してしまったように口を噤んでいた。
そうして私が黙りこくっている内に理央が「そろそろ帰らないと遅くなるよ玲。 私はもう心配ないから」と、先ほどまでの鬱屈が嘘のよう軽やかな語調で私の帰宅を促した。 本当に大丈夫なのだろうかという心配はもちろんあったけれど、ふと理央の部屋にあった置時計で時刻を確認すると、いつの間にやら十七時前だった。
理央の母親は十七時半には帰宅すると以前に言っていたから、私がこれ以上長居して理央の母親と出くわしてしまえば母親に余計な気を遣わせてしまうだろうから、ここは理央の言葉を信じてお暇する方が賢いだろう。
「……わかったよ、理央。 何か心配な事があったら電話してきてね、いつでも相手するから」
「うん、ありがと玲」
理央はまた笑った。 その笑みは、私の良く知っている理央の笑みだった。 それから私は理央と共に玄関へと向かった。
「――じゃあ、また明日ね、理央。 ばいばい」
靴を履き終えた私は理央の方を向いて軽く手を振った。
「うん、気を付けてね。 それじゃあ、さようなら、玲」
理央もまた笑みを浮かべながら私に手を振った。 私は名残惜しげに玄関扉を閉め切った。 扉を閉め切るまで、理央は手を振り笑っていた。 明日、理央が今日よりも元気になって登校してくれればいいなと帳の下りる直前の薄明の空に願いながら、私は理央の家を後にした。
帰路の途中、『さようなら』なんて恭しい言葉を理央が使った事を珍しく思った。 普段ならば『またね』だとか『ばいばい』と軽やかに言ってくるから、私は理央らしからぬ、やけに慇懃な言葉遣いにちょっと違和感を感じた。
けれど、私の良く知るいつもの笑みも浮かべていたから、早ければ明日にでも元の理央に戻るだろうと楽観した私は、何かと恣意的に物を言う理央の事だから、私を心配させまいが為にちょっと普段とは違う言葉遣いを使っておちゃらけて見せたのだろうと推断しつつ、少しばかり軽くなった足取りで駅へと歩みを進めた。
玄関扉を閉め切る前に見た理央の笑みが、私の見た彼女の最後の笑みだとも知らずに。




