第五十話 ほんの些細なこと 47
率直なところ、彼らが根も葉もない噂を鵜呑みにして理央の性質を貶め始めた直後に私の怒りの感情は怒髪天を衝かん勢いで沸々と煮え滾り、その激情の任せるがままに彼らの前に現れて全員に平手打ちしてやろうかと思っていた――いいえ、実際私はその胸糞悪い激怒を握り拳に宿しつつ、その場から足を一歩踏み出していた。
私が彼らの前に姿を現すのは最早秒読みの段階だった。 しかし、私の怒りを抑えたのは、理央だった。 理央は、彼らの元へ行かんとする私の腕を掴んで、まったく私の行動を制止させた。 制止させたと言っても、強い意思を以って前進しようとする私の身体の動きを止め得るほどに理央の手の力がとりわけ強かったという訳ではない。 私が力任せに腕を振れば、理央の私の腕を掴んでいる手はいとも容易く簡単に私の腕から解けただろう。
しかし、私と同様に彼らに憎悪を抱いて然るべき理央が怒りの色を見せる事もなく、剰え理央の胸の内を代弁しようとしていた私の怒りを制止してきたという事実に、私の胸中に轟々と燃え盛っていた激怒は間もなく鎮火させられてしまったのだ。
「……理央、何で止めるの?」
私は理央がなぜ私を制止したのかさっぱり理解出来なかった。 彼らとはあくまで間接的な付き合いだった私でさえこれほどまでに吐き気を催しかねないほどの胸糞の悪さを抱かされているのだから、理央は私以上に彼らに憎悪の念を向けていなければならないはずだった。
だから私は私を制止してきた理央の真意を知るべく、理央の方を振り向いた。 理央は俯き加減に私の腕を掴んだまま黙りこくっていた。
「……理央?」
あまりに何も理央が喋らなかったものだから、私は彼女の精神状態が心配になって再度彼女の名を呼んだ。 すると理央は「もう、いいんだ」と、感情の乗らない声調で諦観を吐露した。
この理央の諦めが非の打ち所のない真っ当な理由から来たものであるならば、私もこれ以上彼女に食い下がるつもりは無かった。 けれども、これはどう考えても、『仕方ない』などという安易な言葉で済ませてよい事柄ではない。
なるほど私と理央は女性同士として性の一線を越えた。 こればかりは私たちにも否定しようのない事実である。 しかし、その事実の一切を証明出来るのはこの世で私と理央だけだ。 噂を吹聴する者や、先の彼らがさも何もかも知った風な口吻を以って真実の気味で証明して良い事柄では断じて無い。
だと言うのに、何が『やっぱり噂通り』だ。 『世の中はうまく出来てる』だ。 理央がどれほど自身の性質に悩み苦しんでいる事など微塵すら知らないくせに、ヤるだのヤらないだのと周囲の目も憚らず低俗な会話を繰り広げているあの輩の方がよほど気色が悪い。
まさしく下衆だ。 紛れも無い悪徳の化身だ。 もう私は金輪際彼らを同じ人間だとは思わない。 あれらは人間の皮を被った煩悩そのものだ。
正しい者が報われて、人道から外れた行いを働いた者は報いを受ける。 あれらは理央の心を土足で踏み躙り、痛めつけた。 何をどう解釈したとしても、あれらの言動は看過出来るものでは無い。 たとえ神が赦しても、この私は決して容赦などしない。 あれらには報いが必要だ。 だからこそ私は今ここであれらに立ちはだからなくてはならなかった。
「もういいって……? 全然良くないよっ! あいつは理央よりもくだらない噂を信じて理央を馬鹿にしたんだよ?! こんなの絶対許せないよ……。 やっぱり今からでもあいつらの所に行って理央に謝らせて――」
「もういいよ、玲」
「だけどっ……――えっ、理央?」
「私の為に怒ってくれてありがとう、玲」
理央は、しばらく俯かせていた顔をおもむろに上げた。 その口には、微笑が浮かんでいた。 しかしその目には、涙が溢れていた。 その微笑が歓喜のそれでない事はたちまち理解出来たし、その涙が理央の悲哀を余すことなく表しているという事も感じ取った。
私はそうした理央の複雑な感情を目の当たりにして、これ以上理央に食い下がる事が出来なくなってしまい、やるせない心持を抱きつつ、いよいよ口を噤んだ。 理央の目からは止め処なく涙が溢れ、頬を際限なく濡らし続けていた。
「やっぱりね、女が好きな私が男を好きになる事なんて無理だったんだよ」
「……」
その言葉は、私の心の奥深くに突き刺さり、激痛を齎した。 私が妙な使命感に駆られて理央を嗾け、男性に好意を持たせるような真似さえしなかったら、理央はここまで傷つかなかったはずだ。 だからこんな結末を迎えてしまったのは、理央を普通の女の子にしてやりたいという、自分勝手で軽薄な思想を疑いもせず遂行してしまった私の所為だ。
そもそも、私の掲げた普通の女の子という定義の『普通』とは何だ? 女が男を好きになる事か? 女が女を好きにならない事か? 『普通』という環からはじき出された者は、この世界に足を踏みしめる資格など無いのか? 違うだろう。
理央は私と出会う前から自身の性質と向き合いながらも、この世界を生きてきた。 私と出会ってからもずっと、この世界で生きてきた。 『普通』とは、人類が長年積み上げ続けて確立させた人間社会という環の中へ進入する為に必要なパスポートなどではない。
けれど人は『普通』を好み、『普通』を信仰し、『普通』に囚われ、『普通』しか許容しない。 人間社会において『普通』の環から外れたものは、排斥の対象となる。 そして私が理央に押し付けていた『普通』はきっと、『普通』という名の鋭利な刃物だったに違いない。
それを理央の喉元に押し付けて、『こうならなければ駄目だ』『それは間違いだ』と理央の意思を強引に捻じ曲げた。 私の理央にした事は一種の脅迫だ。 私は理央に、取り返しのつかない事をしてしまったのだと、この時初めて思い知らされた。
「でもね、玲は何も悪くないよ。 玲は私の歪んだ性質を変えてくれようとしてくれた。 私に異性を好きになるきっかけを作ってくれた。 玲と出会ってなかったら、私は何も変われなかったと思う。 だから、そんな悲しい顔しないで、玲」
しかし理央はまたしも微笑を浮かべ、そのうえで私に非は無いのだと言い切った。 私はたまらずその場から逃げ出してしまいたくなるほどに忸怩の念に駆られた。
何故ここまで打ちのめされておきながらも、自分の事を後回しに私に気を遣う事が出来るというのだ。 散々理央の性質を肯定しておきながらも『普通』という呪縛に囚われて、理央の意思を捻じ曲げてしまった私を、何故そのような慈愛の瞳で見つめる事が出来るというのだ。 私はもう、理央の純粋な瞳を真正面から受け取る事は出来ず、俯き気味に目を逸らした。
「……でも、本当はね、やっぱり、悲しいよ。 初めて好きになれた男の人に、あんな風に思われてたなんて。 胸が、ズキズキして痛いんだ、玲。 私はもう、男の人を好きになる事が出来そうにないよ……。 痛いよ……玲……玲ぁっ!!」
やはり無理をしていたのか、理央は徐々に情緒が不安定になって、最後に私の名を呼んだあと私の胸に飛び込んで、わんわんと泣き喚いた。 それから間もなく授業開始のチャイムが鳴り響いた。 まるで、理央の泣き声を隠すかのよう。
こうした状態では理央も授業どころの話ではなく、私も理央を放って一人教室に戻り何食わぬ顔で授業を受ける事など出来るはずが無かったから、私は万が一に先生に見つからぬよう階段の下の物置らしき場所の奥の方へ理央と共に座り込み、一向に泣き止まない理央の頭を撫でつつ、時間を過ごした。
この日、私と理央は初めて無断で授業を怠けた。




