第五十話 ほんの些細なこと 45
私の楽観的な予想とは裏腹に、理央と伊藤くんの仲は私の好ましい方向へちっとも動いてくれなかった。 彼女らの軋轢が生じてから丸一週間経った今もなお、伊藤くんから理央へ接触を図る動きは無く、あれから理央のSNSにすら反応が無いという始末だそうで、理央は完全に狼狽し、憔悴し切っていた。 この時私は伊藤くんの人間性に初めて疑心の目を向けた。
全体、小寺くんを介してとはいえ、理央とお近づきになりたいと言って来たのは伊藤くんの方であるし、私が理央と伊藤くんの昼食に同行している際に彼と接している限りでは、私は彼がそうした等閑な態度を取るような人間だとは到底思えなかった。 だからこそ尚更彼の変貌とも言える掌返しがまるで信じられなかった。
理央の拒絶の意思は、それほどまでに彼の心に刃を立ててしまったのだろうか。 理央の時と違って、こればかりは私が彼本人に聞く訳にも行かなかったから、理央にとっても私にとってもこの状況は手も足も出ない状態だった。
ふと、伊藤くんの友人の小寺くんならば彼の変貌してしまった理由を知っているのではと思ってはみたけれど、彼らは古くからの友人関係であるから、わざわざ友人の株を下げるような真似をするとは到底思えず、それ以前に高々一年間同じクラスメイトとして過ごしただけの私などには与してくれる筈もない。
結局、あの手この手を思考してはみたけれど、どう足掻いたところで私たちは八方塞がりだという事実を却って助長させてしまい、理央の為に動いてやりたいのに、私からは理央に何一つしてやれる事が無いという二律背反は、着実に私の心を蝕みつつあった。
そうした状況が更に一週間ほど続いた頃、時節は師走の半ば。 私と理央は二時間目の音楽の授業を受ける為に四階の教室から一階の音楽教室へと移動していた。 授業を終えてから、私は理央と教室へ帰ろうとしていた――ところを、音楽の女性の先生に理央が呼び止められた。
これまで理央が音楽の授業の際、先生から個別に呼び止められる事など無かったから、一体何事かと私はちょっと身構えつつ、足を止めてその場で振り返った。 理央も「はい」と返事したあと、先生の方に踵を返した。
先生は「内海さん、先週から歌声に元気が無かったけど、体調でも悪いの?」と理央に訊ねた。 それから理央の隣で先生の話を聞いている内に、先生はただ単に理央の調子のおかしい事に怪訝さを抱いていただけだと判明した。 普段の授業では理央は活発に発声するのが先生の中で当たり前になっていたが故に、先週から理央の調子の悪い事をひどく心配していたようだ。
先生から突然そうした事を言われたものだから、理央もちょっと困った様子で返答しかねていた。 『恋人と不仲で授業どころじゃないんです』などとは流石の理央といえど言えないだろうし、理央の困惑を見かねた私は「先生、内海さんは最近の寒暖差で先週から微熱をこじらせていて、今日もあまり体調が優れないようなんです」と理央の代わりに嘯いた。
先生は「あらそうだったの? 来週末からは期末テストなんだから、出来る限り安静にして無理しちゃ駄目だからね?」と、変わらず理央の体調を気遣っていた。 理央は私の嘯きをたちまち見抜いていただろうけれども、ここは私と先生に合わせるしか無いと悟ったのか、「心配してくれてありがとうございます先生」とその場を凌いでいた。
そうして私たちは音楽室を出ようとした――矢先、廊下の方から男子生徒数名の賑やかな声が聞こえてくるのを感じ取った私は、その男子生徒たちが音楽室の前を通過してから音楽室を出ようと取り決め、扉に手を掛けたまましばしその場で待機していた。
それから男子生徒たちがまさに扉を隔てて私の前を通過しようとした直後、私の耳に、聞き覚えのある二つの声と、馴染みの深い名前が聞こえてきた。 聞き覚えのある声の方は、私の耳に間違いが無ければ小寺くんと伊藤くんだった。
それ以外に他の男子生徒の声も聞こえた気がするけれど、扉を隔てていた事と、まるで聞き覚えのない声だったから、小寺くんと伊藤くん以外の男子生徒の素性と人数までは把握出来なかった。 会話の中に『体育』という単語が出ていたから、おそらく運動場で体育を終えたあとだったのだろう。 そして、馴染みの深い名前というのは――理央の名だった。
私は彼らが音楽室の前を通り過ぎてからおもむろに扉を開け、彼らに気配を悟られぬよう彼らの足音を追った。 理央も怪訝そうにしながらも私のすぐ後ろを付いてきた。 それから彼らの足音が二階へと続く東側の階段の踊り場付近で止まったかと思うと、音楽室を通り過ぎた時よりちょっと声調を落とし気味に会話し始めた。
私と理央は一階から踊り場へと続く階段のちょうど真下に位置する学校の備品が乱雑に置かれた空きスペースに身を隠した。 判然とまではいかないけれど、廊下の反響のお陰で彼らの会話は難無く聞き取れる。 私は息を潜めつつ、彼らの会話に耳を欹てた。




