第五十話 ほんの些細なこと 44
次の休み時間に話そうとは言ったものの、三時間目と四時間目が生憎移動教室で、結局まとまった時間が取れたのは昼休みの時間だった。 もちろん理央は伊藤くんと昼食など摂れる状態ではなく、そして食堂でばったり彼と鉢合わせでもしてしまったら彼と彼女の関係を余計に攪拌してしまいそうだったから、私の苦肉の策として理央を一人先に憩いの場へと向かわせ、私が食堂で理央の分の昼食を購入し、それからその場所へ向かった。
私が昼食を購入してから憩いの場に辿り着くと、理央は所定の位置にただじっと腰を下ろしていた。 どうやらスマートフォンを弄る気力すらも残されていないらしい。 ここまであからさまな理央の消沈ぶりを目前にして、私もひどく心を痛めた。
しかし私までもが暗然とした気を匂わせていては一向に埒が開きそうになかったから、私は理央の傷心を汲み取りつつも「理央、とりあえずお昼食べよ」と、彼女に昼食用のパンを差し出した。 ひどく消沈はしているけれどお腹は空いていたようで、普段より手の運びは鈍いものの理央は無言でパンを食べ始めた。
食欲不振になるほど重症ならば私一人だけ呑気に昼食を摂る訳にも行かなかったから、ひとまず理央に食欲があってくれて良かったと胸を撫で下ろしたあと、私も無言で昼食のパンを頬張り始めた。
それからお互いがパンを食べ終えたのを見計らい、私は理央に訊ねた。
「どうして理央は、伊藤くんからのキスを拒絶しちゃったの?」と。 理央は俯き加減にしばらく黙していた。 私は理央が口を開くまで待っていた。
十二月の走りといえども時節はほどほどに冬へ移り替わろうとしており、寒風こそまともに受けはしないけれど、気温はすっかり冬のそれだったから、私は悴みそうな指先を擦り合わせてその場凌ぎの暖を取っていた。 すると理央がようように「それは今でも分からない。 でも、あの時私は確かに言葉に出来ない恐怖を抱いてた」と答えた。
理央が伊藤くんの事を好いているのは今更改めるまでも無い事実だったけれど、それだけ彼に好意を抱いておきながら、キスをされそうになった途端に恐怖を覚えるというのは、私にはちょっと理解が及ばなかった。
見知らぬ異性からそうした行為を強要されでもすれば、なるほど恐怖や嫌悪を覚えて然るべきなのだろうとは思うけれども、好意を抱いている相手からの性的接触は、むしろ興奮を催す筈だ。 その断定は別に私が人間の本能を代弁しているのではなくて、理央と恋仲である時に私自身がそうであったから、経験則としてそうした思考が自然と導き出されただけだ。
ひょっとすると人によっては、慣れない内は異性との性的接触に理央のような恐怖を感じてしまう者も居るのかもしれない。 だから一概に理央の感覚をおかしいと決めつけたり、私の浅はかな経験則をさも人類の総意のよう闇雲に信仰する事は愚の骨頂だ。
「その恐怖っていうのは、伊藤くんからそういう事をされるのが怖かったって事?」
よって私は、理央の恐怖の根源を見つけ出そうと取り決めた。 理央はたちまちかぶりを振った。
「それは無いと思うんだ。 だって私は伊藤くんとキスする直前まで心を躍らせてたんだよ。 もし伊藤くんとそういう事をするのに否定的だったら伊藤くんの『キスしてもいい?』っていう言葉を聞いた時点で断ってただろうから」
意外にも理央は自身の心情を汲み取りながらはきはきと私の問いに答えた。 理央の言う通り、確かに端から彼との性的接触に否定的であれば、彼からそうした要求を受けた時点で断れば良い話だ。 しかし理央はわざわざ彼からの要求を二つ返事で受け入れた直後、彼との接触を拒んだ。
どうやら、彼の要求を受け入れてから、彼との接触を拒むまでの僅かな時間のあいだに、理央の心に何かしらの作用が働いたと考えるのが妥当だと判断した私は、ひとまず理央への質疑を取り止め、理央本人にすら自覚出来ないまま掛かってしまった作用の正体を探るべく思考に思考を巡らせ――そうして私は、ある一つの答えに辿り着いた。
「……もしかして理央は、伊藤くんじゃなくって、男性にそういう事をされるのを怖がってたんじゃない?」
私の言葉を聞いた理央は、はっと確信したような顔色を覗かせていた。 やはりそうであったかと、私は理央の突発的な性的接触に対する恐怖の理由に大方の見当を付けた。 それは、理央の心には未だ女性が好きだという性質が纏綿してるという推測。
いざ男性とそうした行為をする際に、理央にすら知覚出来ない潜在的な男性に対する拒絶の念が心に働き、まさに今回こうして伊藤くんとのキスを拒んでしまったのだろう。 そう考えれば――いいえ、そう考えるしか、理央が伊藤くんからのキスを拒絶した理由に説明がつかないのだ。
しばらく理央は喪失した様子でただ俯いていた。 やっと男性への好意の方向性を知る事が出来たというのに、女性でありながら女性が好きだという性質が未だに自身の心に根付いているという事実を突き付けられれば、いくら天真爛漫を地で行く理央といえども喪失するに決まっている。
しかし私はそうした理央の喪失の色を如実に匂わせた横顔を隣で目の当たりにしておきながら、慰めの言葉一つすら掛けてあげられなかった。 言葉を掛けてあげられないのであれば、せめて肩を抱き寄せ胸を貸す事くらいはしてあげても良かったのかも知れない。
でも私は、何もしなかった。 理央が悲しみに暮れている様をたたじっと、彼女の横で見守るだけだった。 下手な哀れみは今の理央の心には届かないだろうからと、安易な言い訳を心の中で宣って私の行動しない理由を正当化した。 でもそれは言い訳でも正当化でも無く、まるで嘘だった。 虚偽そのものだった。
今ここで私が理央の心に寄り添い、私の同情で理央の心を動かしてしまったら、きっと私は再び理央を靡かせてしまうという確信を胸中に拵えていた。 それは自惚れでも何でも無く、現今の私にとっても理央にとってもお互いの為にならない衝動を回避するが故に生み出された、一つの協定とも言える不可侵の意思だった。
「理央の女性が好きだっていう性質はこれまでずっと理央の心に付き纏っていたんだから、今もその心が残っちゃってるのは仕方ないよ。 むしろ理央は頑張ってるほうだよ。 たった二ヶ月ほどで伊藤くんっていう男子の事を好きになる事が出来たんだから。 それに伊藤くんもさ、自分が好きだと思ってた相手に急に拒まれて驚いてるだけだと思うんだ。 だから今は伊藤くんの事を信じて、あっちの方から声を掛けてくるのを待っててあげた方がいいんじゃないかな」
私は今とてもいい加減で楽観的な事を言っていると自分自身で思った。 理央よりも伊藤くんを庇護する私の姿は、きっと理央にとっておかしいものに見えたに違いない。 けれど理央は「玲がそう言ってくれるなら、私は伊藤くんを信じるよ」と安直に私を信用した。
私の指を差す方向に迷うことなく歩を進めてしまう理央の素直さと純粋さを、私はこの時初めて危険だと認識した。 しかし今更私の発言を取り消すなどといういい加減な事が私に出来るはずも無く、「じゃあ今日は一緒に帰ろうか」と、いよいよ理央に寄り添う形を取ってしまった。 理央は「うん」と頷きながら、その日初めて私に笑みを浮かべた。 その頬に若干の紅潮が見受けられたのは、冬の寒きに中てられた為に違いない。 でなければ――




