第五十話 ほんの些細なこと 43
日に日に濃密になる理央への思慕を理性で無理やり抑えつつ、理央という少女と出会ってから三度目の師走が訪れた頃、その異変は突然訪れた。
その日の一時間目の授業が終わって間もなく、理央はまた伊藤くんの居る教室へと行くのだろうなと思っていたけれど、一向に理央が私の元に現れなくて、ついに私に声を掛けないまま教室を去ってしまうようになってしまったのだろうかと妙な喪失感を抱きながら理央の席に視線をやると、そこには、理央がぽつねんと座していた。
この時間は彼の都合が悪かったのかしらと推測した私は、しかしそれにしても理央の様子がちょっとおかしく見えた。 実際これまでにも、伊藤くんか理央のどちらかが移動教室だったりで時間に余裕がない時、理央は素直に教室に居残るか私と共に移動したりしていた。 そして伊藤くん側のみが移動教室の際には理央は決まって私の席で私と駄弁っていたのだけれど、理央が教室に居残っている以上、今の時間は伊藤くんの都合が悪かったのだろうという事は私にも断定出来る。
しかし、理央が一向に私の席に訪れず、かと言ってスマートフォンを弄っているでもなく一人寂しく自身の席で俯き加減にじっとしている様は、どう見てもおかしかった。 そうした理央の不審な佇まいを眺めているうちに私自身も妙な胸騒ぎに襲われ始め、たまらず私は席を立ち上がって理央の席へと向かい、席に着くなり「理央、この時間は伊藤くんの所には行かないの?」と理央に訊ねた。
彼の都合が悪い事は予め分かっていた事だけれど、ひとまずはそう聞いておいた方が無難だろうと思い、私は理央の返答を待った。 理央は私の顔をしばし見つめたあと、再び正面を見据えて「うん」とだけ返事した。
先の語調や態度から、やはりどこか元気が無いようだった。 ひょっとすると喧嘩でもしたのだろうかと勘繰りつつ、「そっか、じゃあ次の休み時間まで我慢だね」と私はまた無難に返した。 すると理央は何を言うでもなく、しかしおもむろに彼女が振ったかぶりは、私に異変を確信させた。
「……伊藤くんと、何かあったの?」いよいよ私は理央の異変に踏み込んだ。 それから理央は「ちょっと移動してもいい?」と私に断ってからその場に立ち上がった。 私は「うん」と頷いて承諾の旨を示し、そうして私たちは教室から同階層最西に位置する比較的人通りの少ない廊下へと移動した。 その場所で理央は、今にも消え入りそうな活気の乗らない声調で以下のように話した――
昨日、私は伊藤くんの誘いを受けて放課後から彼の家に訪問していた。 彼の家は学校から徒歩で十分ほどの比較的近距離にあり、私は道中も彼と談笑しながら彼の家へと向かった。 彼の家に着くと、私は彼の部屋に招かれた。 それから彼の部屋でしばし様々な話題を繰り広げた後、突然彼が真面目な顔をして私に近寄ったかと思うと、彼はこう言った。 「俺、理央とキスしたい」と。
私と伊藤くんが恋人同士になってから早やひと月、その間に彼も私の事を『理央』と呼ぶようになるほど私と彼の親密度は日に日に上昇し続けていて、私としても、そろそろキスくらいはいいのではと当初は彼の意思をすんなり受け入れて「うん、いいよ」とあっさり答えた。
それから伊藤くんは無言で頷いてから私の両肩に手を乗せたあと、自身の顔を徐々に近づけ始めた。 このキスがきっかけとなって、私は伊藤くんとの仲を更に深める事が出来そうだと心を躍らせていた――のだけれど、彼の顔が私の顔に近づくにつれて、何故だか私は恐怖を覚え始めてしまった。 次にそれを許してはいけないという絶対的な拒絶の意志が私の心に働いて間もなく、私は彼の顔が私の顔に近付き切る前に半ば押しのけるような勢いで彼の身体を両腕で押し返した。
彼を押し返してから私は冷静になって、取り返しのつかない事をしてしまったような罪悪感に襲われて、慌てて彼に「ごめん」と謝罪した。 しかし彼はただただ唖然としていた。 今までに私の見た事の無い失念の表情をありありと浮かべていた。 それから伊藤くんは「どうして」と私に問い質した。
私にも、どうしてこんな事をしてしまったのかは分からなかったけれど、彼とのキスを拒絶してしまったのは紛れも無く私の意思であるから、「ごめん、やっぱりちょっと怖くなって」と尤もらしい理由を彼に嘯いた。
私の返答を聞いた彼は「そうか」と消沈気味に呟いたあと私から離れた。 以降、気まずい沈黙に耐えきれなくなった私は「今日はもう、帰るね」と彼に伝え、「わかった」という彼の感情の乗らない口調を耳に認めたあと、私は後ろ暗い気持ちを抱きながら彼の部屋を後にした。
その出来事から、伊藤くんの態度が明らかに変貌してしまった。 その日の夜に、彼のキスを拒絶してしまった事を改めて謝罪する旨をSNSを通じて送ってみたものの、[その事はもういいよ。 あと悪いけど今日は色々やってて手が回らないから今日はメッセの相手出来ないから]と、何だか遠回しに彼に避けられているようだった。
今日の二時間目の伊藤くんの授業は移動教室でも何でも無かったけれど、昨日そうした事が起きていたものだから、私はいつものように彼の教室に足を運ぶ事が出来なかった。 私はどうしてあの時、伊藤くんからのキスを拒絶してしまったのだろう。
確かに、彼の意思を受け入れておきながらもキスの直前に彼を拒絶してしまった私に非があるのは自分でも認めているし、そうしてしまった事を心より後悔している。 しかし、あの行動一つで、彼の態度がここまで変わるものだとは思いもしなかった。 私の拒絶は、それほどまでに罪深い行為だったのだろうか。
――以上の旨を私に吐露して間もなく、授業開始のチャイムが鳴った。 幸い私たちの居る場所から教室へはほどほどに近かったから、「チャイム鳴っちゃったから、また次の休み時間に話そう。 それより早く教室に戻らないと先生来ちゃうよ」と理央の手を取って二人で教室へと戻った。 理央は何を言うでもなく、私の手に引かれるままに歩を進めていた。
教室までの短い距離の間、私の握っていた理央の手が徐々に熱を帯びていくのを感じた私は、しかし教室に辿り着く前に理央の手から咄嗟に手を離した。 理央の手を引いているところなどを他の生徒に見られる訳にはいかなかったから。 けれど私が理央の手を咄嗟に手放した理由がそれだけではない事も私は承知している。 理央の手の熱が私の手にも移り、心にまで到達してしまいそうだったから。
 




