第五十話 ほんの些細なこと 40
翌日の朝、私は教室で理央が登校してくるのを待っていた。 学校が家から近いが故に、理央は朝のホームルームの始まる直前に登校してくるのが常だったのだ。 そうして八時二五分頃、理央の姿を教室に認めた私は逸る気持ちを抑えつつ理央の席へと立ち寄った。
「あ、おはよー玲」私の姿を見た理央は普段通り朝の挨拶を口にした。
「おはよう理央、昨日はあれからどうだった?」
「あれから、っていうほど特に何も無かったんだけどね。 玲たちが居なくなってから伊藤くんとSNSの連絡先交換して、その後私たちもすぐに帰ったから」
ことによれば伊藤くんの出方次第で学校付近のカフェなどでお茶でもしていたのではないかしらと妙な心配を胸に抱いていたけれど、さすがにお互いに顔見知りにさえも到達していない間柄だったという事もあって、私たちの退いた後の理央たちは私の予想していたよりも淡泊に事を終えていたようだった。
「そうだったんだ。 それで、理央の感覚として伊藤くんの雰囲気とかはどんな感じだった? 私は同級生の中では割と悪くないほうだと思ったけど」
「うーん、確かに背も高かったし、何ていうか物腰も柔らかくて喋りやすかったとは思うけど、私のその感覚が男に対する格好いいだとか魅力的だとかの好意に該当するかって言われるとちょっと違うような気もするんだよね」
理央は理央なりに伊藤くんという男性に抱いた感触を確かめていたようだった。 これまでの、男性に一切興味を示さない理央ならば、いち男性に対してここまでの評価を下す事は決して無かっただろう。
それこそ、現段階では未だ自身の男性に対する感覚は物に出来てはいないようだけれど、興味を向けるか、向けないか。 たったそれだけの単純極まりない意識の持ち方一つで人間の視野というものはその方面に対して著しく広まるものなのだ。
そうした、所謂カラーバス効果と呼ばれる現象は何も情報や観念のみに限定せず、人間関係においても作用すると私は結論付けている。 何かと気になる人、または好意を抱いている人を自然と目で追ってしまう事、これこそが人間関係における先の効果なのだろう。
特定の相手へ意識を向ける事によって、無意識の内にその相手の存在を心の何処かで探索してしまい、そうして視界に入ったが最後、対象が視界を去るまで、意識はその存在に釘付けとなる。 もちろん私にも経験があるからこそこうした結論が出せる訳で、私の場合、その対象は言わずもがな理央その人だった。
意識を向けるという事はそれだけで人の心を動かす原動力となる。 だからこそ、ほんの僅かであろうとも、理央が意図的に男性に意識を向けた事は彼女にとって大きな前進に違いなかったのだ。
「そっか。 でも、その短い間にそれだけ感じ取る事が出来てたなら十分じゃないかな。 まだ昨日今日の事だし、急ぐ事はないよ」
「そうだね。 あ、そうだ玲、一つだけお願いがあるんだけど」
「うん、どうしたの?」
「昨日の夜にSNSのメッセの方で伊藤くんと話してて、今日のお昼食堂で一緒に食べないかって言われちゃってさ、今日はあの場所で食べられないけどいいかな」
「へぇ、割と進展してるじゃない。 私の事は気にしないで二人で食べてきなよ。 私は適当にどこかで食べてるから――」
「いやそうじゃなくって、私一人じゃちょっと間が持ちそうにないから、良かったら玲も同席してくれないかなー、って」
ああそういう事かと、私は理央の言わんとする旨をようやく理解した。 他人の距離に関して憚る事を知らない理央にも中々可愛いところがあるじゃないかと妙に微笑ましくなった私は「ひょっとして伊藤くんと二人きりでお昼食べるのが恥ずかしいの?」と理央にからかい気味に訊ねた。
「違う違うっ! 伊藤くんとはまだ付き合ったりとかそういうのじゃないから、食堂でいきなり二人きりでお昼なんて食べてて他の人に勘違いされても困るでしょ!」
これほどまでに慌てふためいて取り乱している理央は初めて見たかもしれない。 さすがにこれ以上からかうのは理央に悪い気がしたから、「分かった分かった、私も一緒に付いていけばいいんだね?」と理央からの懇願を受け入れた。
――それからというもの、私は昼休憩の際に理央の付き添いとして学食で伊藤くんと昼食を摂る日々が続いた。 基本的には伊藤くん一人だったけれど、稀に小寺くんも同席していた。 小寺くんが同席している時に彼から聞いた話だけれど、彼らは小学校からの友人らしく、この中学校に進学してからクラスは一度も同じにはならなかったものの、小学時代からの気の置けない友として今でも篤い親交が続いていると小寺くんが語っていた。
そうした事を真隣で語られたからなのか、伊藤くんは「そういうことを真顔で言うのやめてくれよ恥ずかしいだろ」と、照れ隠しのつもりなのか肘で小寺くんの腕を軽く小突いていた。 それを見た私は、そうは言いつつも満更でもなさそうな顔色を覗かせていた伊藤くんと、小突かれた小寺くんが「だってほんとの事だろ?」と言いつつハハハと大笑していた光景を見て、この二人は本当に仲が良いのだろうなと覚えず失笑を溢した。 私の隣で同じ光景を見ていた理央もまたくすくすと笑っていた。
私は完全に理央の付き添いという立場としてあまり己を主張したりはしなかったけれど、理央が伊藤くんと知り合う以前はこうして特定の男子と行動を共にする事などまるで無かったから、これも私にとって一つの青春に違いないと、人知れずこの状況を私なりに楽しんでいた。
それから私が付き添いとして理央と伊藤くんとの昼食に同席し始めてから二週ほど過ぎた頃、授業の合間の休み時間の折の理央の話題に変化が現れ始めた。 これまでの私たちの休み時間の話題と言えば、直前に終えたばかりの授業の内容であったり、理央の目に留まった流行りの歌や動画などだったけれど、近ごろはその話題の中に伊藤くんとの交流の話が追加された。
内容としては食堂での会話の話題だったり、SNSを通じて行われているやり取りの感想みたような、言ってしまえば他愛のないものだったけれど、私が話を振るでもなく、そうした話題を理央本人から口にするという事は、理央は順調に伊藤という男子に意識を向け始めているという事の証明でもあったから、早くも彼女の心境に変化が表れ始めているようだと、私は理央の変化を心から喜ばしく思った。
そうして――神無月は上旬。 理央の昼食の付き添いを始めてからおよそ一か月が過ぎた頃、理央に更なる変化が起きた。
「今なら二人きりでも伊藤くんと喋れそうだから、今日は付き添いは無しにしてもらっていいかな」
その日の昼休み、私が理央の席に立ち寄って「さぁ、食堂行こっか」と理央に呼び掛けた際に理央から返ってきた言葉だった。 あれだけ伊藤くんと二人きりで昼食を摂る事に躊躇していた理央が自らこうした積極的な事を言い出すなどとは思ってもいなかったから、当然私は驚いた。
けれど、その驚きがたちまち歓喜へと変換されたのも事実で、いよいよ理央の男性に対する意識も容を成してきたのだと勝手ながら確信した私は「そっか。 やっと私離れ出来そうなんだね理央」と答えた。
私はちょっとからかいの気を持たせてそう答えたのだけれど、理央は以前のようとりわけムキになるでもなく「いつまでも玲に甘えっぱなしじゃ悪いからね」と微笑しながら冷静に答えた。 この時点で私は理央の変化を確かに感じ取っていた。 やはり多少嗾けの気味ではあったけれど、私の推し進めた道は間違いではなかったのだと無暗に安堵した。
こうして付き添いの役割を失った私は、しかし誇らしさを胸中に抱きながら一人憩いの場で昼食を摂った。 夏から秋へと移り変わろうとしているいやに動きの早い空模様を仰ぎつつ、理央がこのまま普通の女の子になれますようにと願った。
その日以降、私が理央の付き添いとして食堂で昼食を摂る事は無かった。 これまで通り食堂までは理央と行動を共にしたけれど、それぞれの昼食を購入してからは完全に別行動を取り、理央は伊藤くんと食堂で、私は憩いの場か、悪天候や気候の関係でその場所が利用できない時は教室でそれぞれ昼食を摂った。
時折、食堂を去る直前に理央と伊藤くんの席を振り返る事もあったけれど、遠目からでも分かる理央の朗らかな笑みをこの目に映じる度、あぁ、ほんとうに理央の言っていた通り、もう私の付き添いなどは必要無さそうだと改めて安堵を覚えたと同時に、最早私の傍に居るのが当たり前となっていた理央の存在が徐々に私から遠ざかってゆくのを感じ取ってしまい、嬉々と悲哀が交々に私の胸を訪問し、結果的に私はどういった感情を表に出せば良いのだろうかと困り果てた――いいえ、喜んであげないでどうする。
女性のみを恋愛対象としていた理央が男性に興味を抱き、私の手を離れて一人の男子と健全な交流を順調に育んでいるのだ。 この幸いを喜んでやれないで、何が友人か。 私は私の心に訪問する悲哀をにべも無く乱雑に締め出した後、残った嬉々を安直に心へ溶け込ませた。




