第五十話 ほんの些細なこと 37
そうしてしばらくお互いにそわそわしていると、ようやく小寺くんが決心を固めたのか、「あのさ、坂井」と私の名を呼んだ。 彼の言わんとする旨を聞かない事には私にはこの状況をどうする事も出来なかったから、私は「うん」としか答えようが無かった。
「坂井ってさ、内海理央と仲良いんだよな?」
「えっ?! あぁ、うん。 中一からの友達だけど」
すっかり告白される気でいたものだから、まったく関連の無い理央の名前を出された時には思わず私らしくも無い素っ頓狂な疑問の声を上げてしまった。 何故理央の名がこのタイミングで上がったのだろうと、私はその事ばかり考えさせられた。
「そうか、良かった良かった。 って言うのもな」と安堵を噛み締めながら、小寺くんは以下の理由で私を呼び出したのだと明かした――
何でも理央はその可憐な容貌が幸いして、中学一年の頃から同学年の男子生徒の間でそれなりに人気のある女子として扱われていたらしく、しかし毎度毎度の考査の度に圧倒的な学力の差を叩き出して首位の座を不動のものにしていたから、人気はあれど、おいそれと手を伸ばす程度では到底手に入れる事の出来ない高嶺の花として男子生徒たちの目に映じていたようだ。
しかし学年も三年になり、進路と言っても内部進学者が大半を占めるから、もう高校への進学は決まったようなもの。 だから理央にアプローチを掛けるならこの時期しかない――という理由で私を介し、理央とコンタクトを図ろうとしていたと彼は話した。
そして理央の事を好意の目で見ていたのは小寺くんではなく、彼の友人である伊藤という男子生徒だと彼は話した。 何故友人を利用し、剰え理央本人ではなく私を介して話を通してきたかは分からなかったけれど、正直、私は彼の依頼を引き受けていいものかとひどく困り果てていた。 と言うのも、私が理央の性質を知ってしまっているからだ。
理央は男性に興味が無く、女性を性的対象として見ている――私が理央と恋仲を始めるとほぼ同時期に知った彼女の性質だ。 そうした性質を持ち合わせる理央に『とある男子生徒が理央に対し好意を寄せている』と伝えたところで、理央の心は寸分も動く事は無いだろう。 だから私は当初、私の独断でこの依頼を断ろうとしていた。 しかし私はここで、とてつもなく浅薄で僭越な一つの思考を脳裏に過らせてしまった。
"ひょっとするとこれは、理央の性質を矯正させるまたとない機会なのでは"
理央の性質が何時どの時点で理央に定着したのかは私にも分からない。 けれどそれが理央の生まれつき持ち合わせた先天性のものではなく、何かしらの経験や行為を経て定着した後天性のものであるならば、まだ矯正の余地は十分にある。 もしそれが叶うのであれば、いつ世間に発覚してしまうやも定かではない女性との禁断の恋などにわざわざ手を染めずとも、何を隠す事も無くおおっぴらに普通の恋をする事が出来る。 それはきっと理央にとっても喜ばしい事に違いない――私は私の中から突如現れたその思考の妥当性と正当性を信じて止まなかった。 私は完全にその思考に憑り付かれていた。
「……返事は理央次第になると思うけど、それでも大丈夫かな」
「お、引き受けてくれんの? サンキュー坂井! それじゃあ一通り話ついたらまた教えてよ。 あ、携帯持ってるなら一応連絡先交換しとくか」
「ごめん、私まだ携帯持ってないんだ」
「そっか、んじゃまた坂井のタイミングでいいから内海と話ついたら俺に声掛けてよ。 俺の組知ってるよな?」
「うん、五組だよね」
「そうそう。 それじゃ、いきなり無茶言って悪かったけどよろしくな――あぁ、それともう一つ」と言って、小寺くんは何か言い忘れていたのか、校門へ向かおうとしていた足を止めてその場で踵を返し、「内海の件の代わりって訳じゃないけど、坂井もさ、もし気になってる男子が居たら俺が紹介してやるよ。 坂井も内海に負けないぐらい男子に人気あるから、坂井なら誰でも選り取りみどりだと思うぜ?」と私に伝えてきた。
先に彼から語られた、私も理央に勝るとも劣らず男子に人気があるという事実は、私に驚倒を覚えさせた。 そう言えば中学一年の終わり頃から今日に至るまで、移動教室などの際にすれ違う男子生徒からやけに視線を送られていた覚えがあったけれど、ひょっとするとあれがそうだったのだろうかと、私は今になってあの視線の意味を知ったような気がした。
私はあの視線はてっきり、私や理央が考査で毎度上位を独占していて悪目立ちしているからこその好奇と興味の視線なのだろうと思っていた。 だから私は驚きこそしたけれど、それと同じくらいに心が満たされている事も認めた。 理央との恋仲はさておき、私のような勉学一筋のつまらない人間が、いつの間にやら異性を魅了し得る女性になっていたのかと、私は私の思っている以上に得意になった。
「――うーん、私はまだそういうのはいいかな。 勉強にも集中したいし」
けれど、私の浮足立った心とは裏腹に、私の口から出たのは何とも保守的な言葉だった。
「そうかぁ、まぁ毎回試験の順位維持すんのも大変だろうしな。 そういう話があるよってだけで無理強いはしないから、また気が変わったらいつでも言ってくれよ。 それじゃあまたな坂井。 内海の件は頼むよ」
「うん、じゃあね小寺くん」
こうして私は小寺くんと別れた。 私も彼の姿が見えなくなってから下校した。 学校から駅に辿り着くまでの間、それから電車で地元へと向かっている最中も私はずっと、何故小寺くんの男子を紹介するという話にひどく消極的になってしまっていたのかを考えていた。
別に、異性に興味が無かった訳じゃあ無い。 私の『いずれ結婚し、相手の子を授かる』という将来の願望を成就する為にも、私はいずれ異性とそうした関係を築いていかなければならないという事も理解している。 その付き合いが将来の私の伴侶に成り得るかと言われれば判然とした答えは出せないけれども、理央との恋仲を除いて、異性との恋愛の一つや二つは経験しておいて損は無いとも思っていた。
その比較的積極に向いている私の意思を自ら斟酌すれば、小寺くんの申し出は私にとって願ったり叶ったりの機会に違いなかった――はずなのに、私は『勉強に集中したい』などという尤もらしい理由を付けて取り付く島も無く彼からの申し出を蔑ろにしてしまった。
勿論、その言葉は嘯きなどではなく、恋愛に現を抜かし続けた結果、勉学が疎かになった挙句に特待生の権利を剥奪されてしまった日にはそれこそ恋愛どころの話では無くなってしまうから、その言葉は私の本心に相違無かった。
ただ、理央との一年近い恋仲の継続を経て、私は恋愛も勉学も両立出来る事実を把握していたから、きっと理央だけでなく、他の異性と恋仲になろうとも私は現状の学力を維持出来る自信はあった。
それなのに私はそれを言い訳にして異性との恋愛を自分の手で遠ざけた。 私は一体、何を恐れていたというのだろうか。 しかし思考すれば思考するほどに私は答えの片鱗にすら触れる事もなく泥沼に沈み込む一方で、却って答えを知る事に恐れを覚えてしまった私はいっその事と割り切ってその思考の一切を頭から追い出した。 途端に心が軽くなった。
やはり人生の難問の答えをたちまち求めるのは得策ではないように思われた。 いずれは嫌でも答えを知る時、出す時が来るだろうからと、私は生まれて初めて何かに対する問題の答えを先送りにした。
それから遠くの山の上にぽつねんと浮かんでいる一つの小さな雲をじっと眺めている内に、答えを出さない事も一つの正解なのかもしれないという妙に気取った思考が私の中から生まれた辺り、私の人生の価値観も随分と変わったものだなと感慨深さを得た。
どうやら長年の間、お堅い私とは違って何かと融通の利く理央と共に同じ時間を過ごしていた事が作用して、私という人間にも柔軟性が備わったように思われる。
その融通の利く理央ならばきっと、異性との恋愛にも興味を向けられる。 確たる根拠などは無かったけれども、私をここまで変えてくれた理央の為にも、今度は私が彼女を変えてあげなければならない。
それは最早、理央との恋仲を一方的に解消してしまった私に出来る最大の助力であり、使命でもあった。 理央が私の幸せを望んでくれたように、私もまた理央の幸せを心から願っている。
だから私は、理央を普通の女の子にしてやろうと取り決めた。




