第五十話 ほんの些細なこと 20
これでもう、一分の疑う余地も無い。 理央の計算力は本物だ。 もはや理央の計算力を凄いだ何だと安直な言葉で褒め囃す事すら失礼に値するとすら思えてくる。 次元が違うとはまさにこういう事を言うのだろう。 こうして理央の驚異的な計算力を目の当たりにした私は、一種の放心状態に陥っていた。
どれだけ努力を重ねようとも、いくら足掻いて腕を伸ばそうとも、決して縮まる事無く誰にも追い付けない圧倒的かつ絶対的な距離。 それを文字通り目の前に突き付けられたのだから、放心もして当然だ。 しかし、学力的な差は見当もつかないけれど、理央という少女は今もこうして私の右隣に存在している。 そうした背反的な感覚が妙におかしくって、私は理央の顔を眺めながらつい失笑を漏らしてしまった。
「なにか面白かった?」
理央は不思議そうに訊ねた。
「ううん。 ただ、理央って数学好きなんだなと思って」
「好きじゃないよ、数学」
理央が真顔で口にしたその否定的な言葉は、私の頭を白く染め上げた。 これほどまでに数学力があるというのに、彼女が数学を嫌っているという事実がまるで理解出来なかったからだ。
「どうして? さっきのフラッシュ暗算だって、この前の数学の授業のやり取りだって、普通の人にはあんな事絶対出来ないよ。 それだけ自在に計算出来たら楽しいと思うんだけど」
「最初の頃は、そう思ってたんだけどね」と理央は少し遠くを眺めながら寂しげにそう呟いた。 それから理央は続けて口を開いた。
「算数を覚えたての頃は楽しくてさ、目に映る数字を何でもかんでも計算したりしててね、最初は通学中に目の前を通り過ぎた車のナンバーを真ん中で区切って二桁二桁として足すだけだったんだけど、それにはすぐ飽きちゃって、次には二桁同士の掛け算になって、挙句の果てにはナンバーの一番左の数字を元に右の数字分を乗数として計算したりもして、そうやって意味も無く計算を繰り返してる内に気が付いちゃったんだ。 私は計算してるんじゃなくて、計算した答えを覚えてるだけなんだって」
「答えを、覚えてる?」
私は理央の言った言葉が俄かに信じられなかったから、鸚鵡返しで聞き返した。 それから理央はこう語った――
たとえば、一足す一なら計算するまでもなく二だと頭で理解出来るよう、私の場合はそれが掛け算だろうが割り算だろうが公式を使う数式だろうがお構いなしに起こる。 だからあの時の先生の問題も、私の頭の中にある、これまでに解いた数式を呼び起こして先生の言った数字を当て嵌めただけだ。
本当は計算もしているのだろうけれど、私が意識する頃には既に答えが頭の中に浮かんでいるから、先生の私の副読本に対し言及していたカンニングという言葉もあながち嘘じゃあない。一見は式を書く事もなく暗算で答えを導き出しているように見えるのだから。
そしてこの計算方法は私が何かしらの問題を解く度に益々練度が上がってゆくから、今じゃあ計算なんてしていないようなものだ。 私自身も何故にこうした事が出来るかは理解していないけれど、気が付いたらそういう風になってしまっていたから、もう現段階での数学には何のやり甲斐も感じられない。
およそ数学とは答えを求める事が目的なのに、何故途中式などという課程が必要なのだ。 証明ならば話は別だし、学校ではそうしなさいと教わったけれど、たかが二次方程式程度に式などは必要ない。
ああ、数学というのはまったく合理的じゃあない。 だからあの副読本の内容にけちをつけられる事は予め理解していたけれども、私は私の合理性を証明するために式など一つも書かなかった。 解が合致しているのに途中式が無いから不正解だとか、そんなのは屁理屈でしかない。 ただの負け惜しみだ。 だから数学は嫌いなんだ。
――そう語り終えた後、理央はおもむろにその場に立ち上がり、私の方を見た。 その顔にうっすらと笑みは浮かんでいたけれど、どこか儚げな、そうした寂しい顔をしていた。
「私って小学校からこんな感じでさ。 はじめの頃は凄いだ何だってクラスメイトが寄ってきたんだけど、掛け算が始まった辺りから計算が早すぎるって気味悪がられて、先生にもカンニングしてるんじゃないかって疑われたりもして、良い事なんて一つも無かった。 これは数学だけじゃなくて、他の教科でもそうなんだ。 私は一度勉強したり読み聴きした事を絶対忘れないの。 国語の授業で、ある物語の朗読をしなきゃならない時にはいちいち教科書を見て朗読するのが面倒だから、頭から最後まで全部覚えて暗唱した事があるけど、その時も先生含めて引かれてたっけなぁ。 いっそのこと、こんな能力なんて無ければ良かったよ。 私は誰かと仲良くしたかっただけなのに」
理央が自身の苦い過去を語り終えた後も、私は口を開く事が出来なかった。 境遇としては私と似ていたのかもしれないけれど、それは表面上のみの類似であって、内容はまるで似て非なるものだという事を私はすぐさま理解した。
自身の意思で他者とのコミュニケーションを放棄した者と、他者とのコミュニケーションを望みながらも自身の異質なまでの頭脳を誰にも理解される事も無く腫れもの扱いされてそれが叶わなかった者。 ――私は理央にひどく同情した。 けれど、やはり私の口から理央を慰める言葉などは出てこなかった。 安易な慰めの言葉を投げ掛けようとも、理央を傷つけてしまうだけだと確信していたからだ。
「実はね、この学校に来た理由はもう一つあったんだ。 県内屈指の進学校のここなら、私の事を理解してくれる人が一人くらいは居るんじゃないかって思ってね、でも、そんな人は一人も居なかった。 やっぱり私は誰にも理解されないまま一人で――」
「……一人も居なかった? じゃあ、私は理央の何なの?」
その言葉だけは、肯えなかった。 理央との付き合いはまだ二か月にも満たない短いものだったけれど、その短日月の間に私は理央という人間に惹かれ、理央という人間を知ろうとした。
その関係性を『友達』という括りに分類していいものかは私にも分からなかったけれど、少なくとも私にとって理央は、生まれて初めての友達だった。 理央も私の事をそう思ってくれていればいいなと願ってさえいた。 しかし、先の理央の言葉で、その願いは敢え無く粉々に打ち砕かれた。




