第五十話 ほんの些細なこと 19
「……すごい」
私は覚えずそう呟いた。 何をどう頭の中でやりくりしたら、先の高速で現れては消える数字たちを把握した上でその総ての数字を加算出来るというのだ。 理央の計算速度は確かなものだったけれど、今度は彼女がどういう仕組みで暗算をこなしたのかを知りたくなってしまったから、
「一体どうやったらそんな計算が出来るの?」と理央に顔を近づけながら一心に訊ねた。 理央は何故だか少し困ったような顔をして、私から身を引いている。 さっきは自分から近づいてきたくせに、何をそんなに慌てているのだろうと怪訝には思ったけれど、今はそうした彼女の態度の変わりようより、理央の頭で何が起こっているのかを知りたかったから、私は更に理央との距離を縮めた。
理央はかすかに顔を赤くしつつ、わざとらしく咳払いで場を濁した。 それから「わかったから、説明するから一旦ちょっと離れてっ」と私の両肩を手で押さえたかと思うと、ぐいと私の肩を押して私の前のめりな身体を押し戻した。 私も些か気持ちが逸り過ぎたなと反省して「ごめん」と理央に謝った。 「いいよ」と許容した理央の口元には、僅かに笑みが浮かんでいた。
それから理央は「説明って言ったけど、正直説明するほど大層な事はしてないんだよ。 ただ画面に現れた数字を次々に足してるだけだし。 何て言うんだろ、水の入った複数のコップがあって、コップに入ってる水の容量はそれぞれ異なってるんだけど、それを次々にバケツに足していく感じ? ――うーん、口で説明するよりは実際やってみた方が分かりやすいと思うから、もう一回だけやってもいい?」と、再度フラッシュ暗算を試みようとした。
私としては、その『画面に現れる数字を次々に足してゆく』のにどういった計算法や工夫が必要なのだろうという事が知りたかったのだけれど、それは理央にとっては足を前に出せば歩く事が出来るといったように出来て当然の行為らしいから、なるほどそうした行為に理屈をつけて説明しろと言われても中々説明には難くなるに決まっている。
私の納得のいく答えを出せと無理強いして、必要以上に理央を悩ませるのも悪いと慮った私はこの際成り行きに任せてみようと思い立ち、「うん、今度は理央が解ける最大値でやってみてよ」と注文を付けてから理央にスマートフォンを返却した。 理央は「わかった」と軽快に返事したあと、スマートフォンを操作して諸々の設定を始めた。
そうして設定が済んだようで、再び私にスマートフォンを手渡し「表示速度は四〇〇、桁は五桁、数字の出現回数は百。 全部最大値ね」と設定内容を明らかにした。
表示速度は前回と同じだとはいえ、前回の時点で三つの数字しか把握する事の出来なかった私からすると、一秒間に五桁の整数が六.六回出現するというだけで最早お手上げだ。 出現した五桁の数字の一つだけでも覚えろと言われたって覚え切れない自信がある。 その数字を全て把握した上で加算するなど、それはもう人類の限界を超えているんじゃないかしらと思った。
「自信は、あるの?」
さすがの理央もこの設定には四苦八苦するに違いないだろうから、私は彼女に自信のほどを訊ねた。
「いやー、五分五分ってところかなぁ」
やはり理央を以ってしても、この設定は無茶らしかった。
「そうだよね、五桁の数字を百回分足すなんて、全部の数字が紙に書かれてても時間掛かるよ」
「あー、いやそういう事じゃなくて、私結構ドライアイでさ、表示速度四〇〇で表示回数が百回って事は全部の数字が出るまでに一五秒ちょっと掛かるから、その間ずっと目を開けてられるかって事。 さすがにまばたきしちゃったら数字見逃しちゃうからね」
私は言葉を失った。 理央の難色を示した理由は計算の難しさではなく、ただ単に数字が表示されている間ずっと目を開けていられるかという人体の問題だったのだ。 思わず空笑いが出た。 それもそのはずだ。 何故なら先の理央の言葉は『目さえ開けていられれば計算出来る』と言っているようなものなのだから。
それから理央は自身の目を指でごしごしと何度か擦ったあと、「よし! いつでも始めていいよ」と準備が整ったのを宣告した。 私は「わかった」とだけ返答してから開始ボタンをタップした。 三、二、一、とフラッシュ暗算が開始されるまでの短いカウントダウンの間に、私は確信的にこう思った。 理央はきっと、この問題も難なく解いてしまうのだろうな、と。
そうして数字が表示され始めた。 ――先の二桁十回が滑稽に思えてしまうほど、私の手に持っているスマートフォンの画面上で行われているそれは最早何の目的で五桁の数字が目まぐるしく表示されているのかすら私に忘却させた。 百回表示された五桁の数字のうちの一つも私の頭には残っていない。
言うなればそれは高速で数字の羅列が一方的に流れてゆくだけの、たとえば電車の窓から何気なしに目に映る家々のよう、なるほど目には映り込んでいるのだけれど、その家々の一つ一つを明確に記憶している訳では無く、どこそこの地点に建っているあの家の屋根の色は何だったかと問われても、私には答える事が出来ない。
そう、今まさに目の前で成された問題は、私にとってはただの風景でしかなかった。 これは私の足を踏み込んで良い世界ではなかったと、悔しささえ感じる暇もなく、百の数字が表示し終わる十五秒という短い時間のあいだ、私は私の前から理央という存在が光速度で消え去ってゆくのを確かに感じ取った。
「よし、完璧だね」
フラッシュ暗算の表示が終了して間もなく、理央は自信ありげにそう語った。 きっと全ての数字が表示されるまで、ずっと目を開けていられたのだろう。 私も今更理央の計算力を疑うつもりは無かったから、「じゃあ数字入力するから教えて」と率直に理央の解を求めた。
「うん。 七桁あるから頭から一つずつ言うね。 5、3、7、5、3、2、7」
私は理央の緩やかに読み唱えてゆく数字を間違えないよう入力し、そしてすべての数字を入力し終えた私は『OK』の枠をタップした。 果たして画面上には『〇』と表示された。 私は理央にスマートフォンを返却し、その画面を確認させた。 彼女は特に解答の合致を誇るでもなく「うん」と頷きながら微笑んだ。




