第五十話 ほんの些細なこと 18
余談ではあるけれど――フラッシュ暗算というのは画面上に次々と表示される数字を暗算で加算してゆくという、本来そろばんの動きを頭に植え付ける事によって暗算力を向上させる珠算式暗算と呼ばれる暗算法の練習に用いられている計算の問題だ。 私も小学校高学年時代、担任の先生が画用紙で手作りしたフラッシュ暗算の問題をやった事があって、私自身暗算力には多少の覚えがあったから、誰よりも多く正解してやろうと張り切っていた。
最初の数問は数字が一桁かつ数字の書かれた画用紙も数秒表示されていたから何なく全問正解出来たけれど、最後に先生の出した問題は数字が二桁書かれていて、先生も少し意地悪をしたのか、画用紙の送りも先の数問より早く、その問題も辛くも正解はしたけれど、あれ以上桁と表示速度が上がれば私には解読不可能だろうと、その時初めてフラッシュ暗算とは単純な暗算能力だけでは解く事の出来ない競技性のある一種のスポーツのようなものだと私は理解した。
――果たして理央のフラッシュ暗算力はどれほどのものなのだろうか。 表示される数字の回数と桁の入力を私に委ねてきたからには、たとえ私が全ての値を最大にしようとも、彼女はそれを難無く解く自信があるのだろう。
そして私はこれを良い機会だと思った。 いっそこの際だから、理央の計算力をここで詳らかにしてやろうと考えた。 それから私は理央からスマートフォンを受け取った後、彼女に操作方法を教示してもらいながら数字の表示回数と桁の設定へと移った。
表示速度は最大だと言っていたから、私はそれを最大値の四〇〇に設定した。 ここで設定する数値はアプリケーション内の説明によると一分間に表示される数字の数のようで、たとえば六〇に設定すれば一秒間に一回、その倍の一二〇に設定すると秒間二回のペースで数字が切り替わるという仕組みだ。
そして最大値の四〇〇に設定すると、秒間六.六回という速度で数字が表示される事となる。 その表示速度がどれほどのものかは想像もつかないけれど、人間のまばたきの速度と言われている百五〇ミリ秒と先の設定による一つの数字の表示時間は同等だから、まばたき一つするだけで数字の一つを読み落としかねないと考えると、秒間六.六回という数字が如何に途轍もない表示速度かという事が実感出来る。
桁数は一から五、数字表示回数は二から百までの整数を設定出来るようだった。 まずは小学時代に私の苦戦した二桁から試そうと思い立ち、「じゃあ、二桁の十回でもいいかな」と私がアプリの設定を終えてから進言すると、理央は「そんなに少なくていいの?」と何やら物足りなさそうに私の設定した数値に言及してくる。
その言葉から、理央にとってその数値では朝飯前にも届かない難度だったのだろうという事は理解出来たけれど、一先ずは小手調べという事で「とりあえずこれで」と、私は設定を変えない事を理央に伝えた。
理央は「まあいっか。 んじゃそれでやってみるよ」と言った後、私に近づいて身体を密着させてきた。 その行為が、スマートフォンを操作するのが私だったからこそ画面が良く見えるように近づいたのだという事はたちまち理解したけれど、理央の左半身が私の右半身に接触した時には何故だか知らないけれど、心臓の鼓動とはまるで別の鼓動が私の胸に脈打って、覚えず背筋が伸びた。
そうして私が妙な緊張に心を奪われている最中に「スタートは玲のタイミングでいいから、いつでもオッケーだよ」と理央に言われたものだから、私も「え? あ、うん、わかった」と、動揺丸出しの態度で返事をしてしまった。
幸い理央はスマートフォンの画面を注視していて私の態度は気にも留めていなかったから、私は私の態度を理央に悟られてしまわない内に「じゃあ、スタート押すよ」と、いよいよフラッシュ暗算を開始した。
六二――七九――四〇――私が辛うじて読み取れたのはその三つの数字のみで、私は計算どころか全ての数字の把握すらも儘ならなかった。 あらかじめ理解はしていたはずなのに、あまりの表示速度の早さに理不尽さを覚えずにはいられなかった。 こんなもの人間に解けるはずが無いと心の中で悪態さえ付いた。
そうして私が消沈している横で、理央は「じゃあ今から私が答えの数字言うから、玲が入力してね」と私に先の問題の解の入力を依頼してくる。 という事は、理央は先の問題を解いたという事になる。 とても信じられなかった。 けれど、これでもし理央が見事正解を果たしたら、あの数学の時間での計算速度にもある程度の納得が良く。 私は「分かった」とだけ返答し、理央の言葉を待った。
「516」
理央は淀みなく解を口にした。 私はその数字を間違えないよう入力し、そして入力を終えたあと『OK』の枠をタップした。 すると画面上部に大きく『〇』と表示された。 すなわち、理央の示した解が合致していたという事。 理央はあの理不尽な速度で表示された数字の数々を一つ一つ把握した上で計算にも成功していたのだ。




