第五十話 ほんの些細なこと 17
その場所に辿り着いて間もなく感じたのは、日当たりの良さだった。 午後十三時を過ぎた今、やや傾き始めてはいるけれど、太陽はほぼ私たちの真上に位置している。 五月という時期的に、日々暖かくなり初めてはいるけれど、気温自体はまだ二〇度を下回る事も多く、その日も朝方から肌寒い気候だったから、側壁に守られて風も来ず、加えて太陽光を頭上から一心に浴びた私の身体は、制服の黒色も相まってあっという間にぽかぽかと温まり、とてもいい心持ちを得た。
「こんな場所、よく見つけたね」
私は気分を良くしながら発声一番理央にそう言った。
「うん。 このまえ休み時間に色々探検してたらここを見つけてね。 日当たりもいいし、何か秘密の場所っぽくてそそるでしょ!」
理央もやけにご機嫌な様子でこの場所を発見した経緯を語った。 確かに理央が数週間前から休み時間ごとに席を立って教室を離れていた事は知っていたけれど、そうした理由だったとはいざ知らず、私は「あんまり勝手に出入りしてたら先生に怒られるよ」と理央に忠告しつつ、呆れ笑いを溢した。
それから私たちは昼食を食べ始めた。 私と理央は非常階段の踊り場に腰を据え、階段側に足を下ろすように座っていて、私と理央との間隔は体一つ分程度には空いている。
さすがに直接コンクリートに預けたお尻は些か冷たかったけれど、午後からの授業も残っているというのにこうして麗らかな陽の下で摂る昼食というものは中々どうして乙なもので、ただ単に学校内の非常階段の一画で昼食を摂っているだけなのに、私の心は妙に躍っている。 自分で言うのは滑稽だけれど、私はこれまで私という人間を優等生で通してきたから、一歩間違えれば先生に叱られかねないスリルというものを楽しんでしまっているのかも知れない。
歩行者用の信号機が点滅している時点で潔く次の青を待つ私が、渡る途中で赤になるのも厭わずに点滅中の信号を渡り切ってしまったかのような、そうした理央とのちっぽけな火遊びは私の心を確かに炙っていた。
「――そういえば四月頃の数学の授業の時に、何で理央はあんなにすらすらと先生が書いた問題の答えを言えたの?」
お互いに昼食のパンを全て食べ終えた頃、私は例の件について理央に訊ねた。 理央はちょっと首を傾げつつ「何でって、問題が解けたからとしか言いようがないけど」と答えた。 しかしそれは私が知りたかった答えではなかったから、
「いや、そういう意味じゃなくて、何で口頭の文章問題も、まだ私たちが習ってもいない二次関数も暗算で答えられたのかって事。 私も数学は得意な方だけどあの問題の数々を暗算で、しかも数秒で解く事なんて絶対無理だから、もしかしたら理央独自の勉強法でもあるのかなって気になってたんだ」
私は率直に理央の異常なまでの解答速度の謎に迫った。 すると理央は膝を打ったかのような声色で「あぁそういう事ね」とようやく私の話の趣旨を理解してくれたようで、「私ね、数式を見たり聞いたりしたら頭の中に答えが瞬時に浮かんでくるんだ」と涼しげに語った。
それから補足的に「数学の公式ってあるでしょ? 私はあれを今知ってる範囲で全部覚えてるんだ。 二次関数も小学校の頃には覚えてて、この前の先生の出した問題もそれを元にして頭の中で解いたって訳。 一回形を覚えれば、あとは数字を組み替えるだけで答えが出てくるから楽なんだ」と話した。 理央の副読本を完了したという話を聞いた時と同様、私は彼女の言っている事がとんと理解出来なかった。
数式を見聞きしただけで解が瞬時に閃く――理央の頭の中には電卓でも内蔵されているとでも言うのだろうか。 そうしたあまりにも馬鹿馬鹿しく、失笑を誘う事さえ出来ないであろう思考を大真面目に脳裏に巡らせてしまうほどに、先の理央の言葉は甚だ信じ難かった。
――いえ、電卓であろうとも計算には入力が必要となる。 だけれどあの時の理央は、その入力すらも無視しているかのような計算速度だったから、先に彼女が発した言葉が真実であるとすれば、理央の人間離れした計算速度は計算機器すらも超越しているのかも知れない。
「本当に、そんな事が出来るの?」
それでもやはり私には理央の計算速度が未だに信じられなくて、つい疑り深く彼女に問い質してしまった。 すると理央は「じゃあ今から試してあげようか。 ちょっと趣旨は変わるかも知れないけどね」と言いつつ、スカートのポケットの中からスマートフォンを取り出し、何やら数手操作をしていたかと思うと、
「これ、フラッシュ暗算が出来るアプリなんだけど、今からこれの数字表示速度を最大にして計算してあげる。 出てくる数字の回数と桁は玲が決めていいよ」と言って、スマートフォンの画面をこちらへと向けてきた。
そこには画面上部に『ready』と大きく表示されていて、画面半分より下側にはテンキー方式で数字が表示されている。 そして画面中央辺りには『START』と書かれた枠があったから、それを押す事によってフラッシュ暗算が開始され、数字が出終わったのちにテンキーで数字を入力し、正誤を検めるという方式なのだろう。




