第五十話 ほんの些細なこと 15
理央は先と同様の調子で答えた。 「だから、あの問題集は全部終わったって言ったんです」と。 理央の返答の後、教室はしんと静まり返った。 同じ答えを二度言ったにもかかわらず、先生も、生徒たちも、理央の言葉を信じられなかったのだろう。 私は事前にその事を知っていたから驚かずには済んだけれど、私も彼らと同じ立場だったら、きっと驚倒を呈せずにはいられなかったに違いない。
それから、あまり居心地の良くない沈黙がしばし続いたかと思うと、先生は顔色を変えずにすたすたと理央の席へと歩を進め「今、その問題集持ってるかい」と理央に訊ねた。 理央は素直に机の中から例の副読本を取り出し、先生に手渡した。 先生はその場所で理央の副読本の内容を検めている。
それから私の耳に先生の副読本の頁を捲る音が聞こえなくなった頃、先生は唐突に鼻で笑ったかと思うと、「ああそうか、そういう事か、うん」と何やら確信したらしい風な事を呟いてから副読本を理央のテーブルへ乱暴に投げ捨てた後「うん。 君、答え写したね」と冷淡な口調で理央に言及した。
"答えを写した" その言葉に、私は心当たりがあった。 それもその筈だ。 私も理央の副読本を検めた時、その言葉が脳裏に過ったからだ。 そして私も先生も、その言葉を過らせるだけの理由があった。
――理央の解いた副読本のすべての解答には、途中式が一つも書かれていなかったのだ。
数学の世界において、問題を解く為の途中式というものは欠かせない。 それこそ、1+1や4-2のように単純な加算減算問題ならば途中式など必要は無いけれど、これが二桁以上の乗算除算問題になってくれば話は別で、私も問題によっては途中式を省いて暗算で答えを導き出せる事もあるけれど、そういう時は大抵、素直に途中式を書いて答えを導き出した方が早く済む場合が多く、要するに、数学として難度の高い問題であればあるほど、途中式は必要不可欠なのだ。
――にもかかわらず理央は、一次不等式も、多項式も、連立方程式すらも、ただの一つも途中式を用いずに答えのみをそこに記していた。 もちろん理央の記した答えの正誤は私には判別できなかったから、ひょっとすると理央がおふざけで出鱈目に答えを書き記したのかとも思った。
けれど、先の先生の言葉から察するに、きっと解答自体は合っていて、しかし途中式が無いものだから、先生も態度を悪くして『答えを写したな』などと強く攻勢に出たのだろう。
実際私も、理央のあまりにも早すぎる副読本の進行速度を受け止めきれず、よもや何処かから解答を得た上でそれをそっくりそのまま書き写したものかと疑ってしまった。
しかし理央は「こんな簡単な問題で答えを写してたら余計に遅くなっちゃうよ」と、やや皮肉っぽく答えた。 その言葉が癇に障ったのか、先生は人を小ばかにしたような鼻の鳴らし方をしたかと思うと「うん、そこまで言うなら、今から先生が言う問題を解いてみせてもらおう。 ただし、ペンやノートを使う事は許さない、暗算でだ」と、理央に何かしらの問題を突き付けようとしていた。
以前からこの先生の生徒に対するやけに高飛車な物言いはあまりよろしくないとは感じていたし、理央の不遜な態度にも問題はあったのかもしれないけれど、先生が生徒相手にここまで敵意を向けるとは思わなかったから、私の真隣でそう火花を散らされると、無関係の私まで火傷してしまいそうになる。
私は肩を窄めつつ、事の成り行きをただ黙して見守るしかなかった。 当の理央は平然として見上げ気味に先生の顔を見つめていた。 こうしたひどく緊迫した状況だというのに顔色一つ変えないでいる理央を横目で見て、理央は強い人間なのだなと思い知らされた。
それから先生は顎に軽く手を添えながら思考を巡らせている風な態度をしばし保ったあと「うん、連立方程式の文章問題で行こう。 それぞれ数字の異なる二数があるとする。 それらはいずれも整数で、その二数のうちの大きい方の数から小さい方の数を引いた差が三となり、小さい方の数の三倍から大きい方の数の二倍を引くと六になる場合の二数の値を求めよ」と、口頭で連立方程式の問いを理央に投げ掛けた。
「x=15、y=12」
解けるはずが無かろうといった気味で、先生が片側の口角を目いっぱい釣り上げて間もなく、理央は先生の問い掛けが終わった瞬間に答えを口にした。 その解答の正誤はやはり私には分からなくて、しかし、先生の青ざめた顔色から読み取るに、彼女が一瞬で解き明かした答えは合っていたのだろう。
理央は態度を変える事もなく、白い肌に血流を感じさせないまま例の調子で先生を見つめている。 片や先生の方はと言うと理央とは対照的に怒気を思わせる赤黒い顔色を覗かせながら歯ぎしりでも聞こえてくるんじゃないかしらと思えてしまうほどの奥歯を噛み締めたような険しい顔つきでわなわなと拳を握り締めていた。
「な、なかなかやるじゃないか君。 もしかしてあれかな? 別の問題集で同じ問題があってたまたまその答えを覚えてたのかな? うん、そうだよね、いくら問題が簡単な方だからって口頭での文章問題を暗算かつ数秒で解ける筈ないよなぁ、うん」
しかし先生も先生としての矜持があったのだろう。 さすがに生徒と同じ土俵で言い争う訳には行かなかったらしく、握り込んだ拳までは隠せていなかったけれど、笑顔を引きつらせつつも比較的穏やかな口調で対応している。 未だに理央のカンニング疑惑は捨て切れていなかったようだけれど。
「じゃ、じゃあもう一つだけ問題を出そう! うん。 今度のは黒板に書くから、別に式も書いてくれていいし、その問題が解けたら先生も君の不正を疑ってしまった事を謝ろう。 うん」
そう言い残すと先生は壇上の方へと早足で歩いていって、片手にチョーク、もう片手に数学の教科書らしき本を手に取ったかと思うと、黒板に勢いよく数式を書き始めた。 先生の黒板に書いている問題が二次方程式であるという事は私でも辛うじて分かったけれど、後に耳にした情報によるとそれは本来中学三年生で学習する範囲の問題だった。
いくらこの学校の数学の方針である、中学一年生の内に通常の中学の三年分の授業量をこなすといえども、それを習うのは二学期の後半や三学期になるはずだから、現時点での私たちの数学力で読み解ける問題ではなかった――はずだったのだけれど、理央は先の口頭問題よろしく、先生が数式を書き終えた瞬間に答えを言って見せた。 先生はチョークを持っていた手を震わせて黒板に蚯蚓のような線を描きながら例の赤黒い顔をしていた。
それから何を思ったのか先生は、鼻息を荒くしながら更なる数式を黒板に書き始めた。 その時の先生の態度を一言で表すならば『やけくそ』と言うべきだろう。 しかしそのやけくそさえ物ともせず、理央は先生が黒板に書き連ねてゆく問題の解を、書かれた順に片っ端から読み上げた。
そうして、黒板が数式に埋め尽くされて間もなく、先生の手がついと停止し、チョークと教科書をそれぞれ元の位置に戻したかと思うと、突然黒板消しを両手に持って黒板を埋め尽くす数式の数々を消し去り始めた。 それから黒板が綺麗さっぱり元の状態に戻った頃、先生は生徒たちの方を向いて、
「うん。 やっぱりこんな事するのは大人げなかったね! うん。 それじゃそろそろ授業始めようか。 うん」と妙に声調を高くしながら何事も無かったかのように授業を始め出した。
私を含めた生徒一同は先生の緩急についていけなかったようで首を傾げたり横の生徒と顔を見合わせたりして困惑した様子を見せていた。 その中でただ一人、理央だけが何事も無かったかのよう、またシャープペンを分解し始めていた。 理央の異質なまでの解答の早さに対し、私の思考はすごいだとか頭が良いだとかの安直な答えを寄こさずに、ただただ一言、私にこう思わせた。 恐ろしい、と。




