第五十話 ほんの些細なこと 14
私にそこまで言わしめるほどに、私が理央との学力に歴然たる差があると思い知らされた出来事がある。 あれはとある日の数学の授業の際に起こった。
私たちの数学を担当する男の先生は、入学初っ端の数学の授業の際にこんな事を言った。 「ここの中学の数学は一般の中学校の三年分の内容を一年でやってしまうから、予習復習は必ずやっておくように」と。
それから先生は数学の副読本を生徒に配り終えた後、「それは一学期分で習う範囲の数学の問題が載っている問題集だ。 君たちにはそれを一学期までに全て自主的に終わらせてもらうつもりでいる」と私たちに長い宿題を課した。
その副読本はこれから学習するであろう数学の様々な問題が二〇〇頁超に亘って記載されており、最初の頁辺りは今の時点でも十分に解ける水準の問題だったけれど、後半になるにつれて今の私の数学力では読み解けない問題が増えてきて、最終辺りの頁になると完全にお手上げだったから、ちょっと不安を覚えた。
けれど、この副読本を全てやり終えた頃には私の数学力は今以上のものになるであろう事は確信していたから、私はそれを受け取ったその日から自宅で毎日五頁を目標として自主的に解き進めていた。
もちろん思うようには進まない。 既に授業で習ったり応用で読み解ける問題であればとりわけ苦も無く筆を走らせる事が出来たけれど、それが通用しない新たな観念の部類の問題は解き方をその都度その都度調べなければならず手が止まってしまうし、何も授業が行われるのは数学だけではなく、他の教科の勉学にも励む必要があったから、数学の副読本を渡されてから三日目の時点で私はまだ十数ページしか解けていなかった。
その解いた範囲の後半部は授業ではまだ教えられていないところだったから、決して焦る必要は無かったけれど、それでも当初の予定よりも進行の遅い様を目の当たりにした私の心には私自身の力不足を詰る卑屈さが生まれていた。
当時は理央の事も未だ『内海さん』と呼んでいるほどの距離の遠さがあって、その頃には彼女の学力も未知数だったから、私からは必要以上に理央に関わっていなかったけれど、例の『四九』という数字に対し、私と同じ共通の感覚を持っている理央もまた学力には覚えがあるのだろうと踏んでいた私は、数学の副読本を渡されてから四日目の休み時間中に軽い気持ちで理央に訊ねた。 「あの数学の問題集、どこまで進んだ?」と。
理央は顔色を変える事も無く「ああ、あれね。 もう終わっちゃった」と答えた。 私は一瞬、自分の耳が遠くなったのかと聴力を疑った。 「え、終わった、って?」私は再度訊ねた。 「うん、昨日全部やっちゃった」やはり理央は平然とそう答えた。 私の聴力は正常だった。
それでも理央の口にした言葉が未だに自分のものに出来なくて、私はしつこいのを承知で「本当にあれを全部終わらせたの?」と理央に食い下がった。 すると理央は「疑い深いなぁキミも。 ――ほら、これで納得してくれる?」と、自身の机の中に入れていた一冊の本を私に手渡した。
それは数学の副読本だった。 私はそれの中身をたちまち検め、頁の終わりに差し掛かった頃には、まだ授業でも習っていない範囲が大半を占めるこの二〇〇頁超の副読本をたった四日間で終わらせたという事実をようやく受け入れる事が出来た。
そうして受け入れはしたけれど、この四日間で満足に副読本を進める事の出来なかった私にとって、理央のまさしく光速度に近しいその学習速度は、井の中の蛙が何の気構えも無く宇宙の天元に放り投げられてしまったかのような衝撃を与えた。
それから例のとある日、その日の数学の授業の際、先生は「先週渡した問題集、みんなどこまでやったかな。 数学の得意な子なら、もう三、四〇ページは終わってるかも知れないね」と私たちに訊ねてきた。
しばらくして生徒の中からちらほらと自身の進めた頁数を口にする人たちが出てきて、平均するとおおかた十五頁ほど進めているようだった。 中には五〇頁以上終わらせていた女生徒もいて、先生は軽い拍手を以ってその女生徒を称えていた。
かくいう私は理央の副読本の件を目の当たりにした日から彼女に対し妙な対抗心というものが芽生え初めていて、他の教科そっちのけで数学に打ち込んだ末、その時点で六〇頁超を終えていた。
けれど、わざわざ自己申告によってその勉強ぶりを公にされるのも何だか己の学力を誇示しているようで憚られるし、何より、理央が既に副読本を全て完了させているというのにたった五、六〇頁如きで持て囃されてしまうのはあまりにも滑稽が過ぎるから、私は何も言わずに黙っていた。
理央もそうした順位付けには興味が無かったようで、何やら机の上でシャープペンを分解しては組み立てるを繰り返して完全に遊んでいた。
すると先生は突然「おーい、そこの一番後ろでシャープペン分解してる子ー、ここから全部見えてるからね。 遊ぶのはやめよっか。 うん。 それで君は問題集どこまで終わったのかな?」と、後方に視線を向けてきた。
その忠告を向けた相手は間違いなく理央だったけれど、当の本人は自分が呼ばれた事にとんと気が付いていなかったようで、先生の顔色が徐々に暗い方向へと移り変わってゆくのを見かねた私は「内海さん、先生に問題集どこまで終わったのか聞かれてるよ」と小声で教えた。
それから理央は組み立て終えたシャープペンを机に置いたかと思うと先生の方を見据えて「それならちょっと前に終わりましたけど」と淡々と答えた。 あの時の私と同じくして、きっと理央の言った事がたちまち理解出来なかったであろう先生は「うん? 終わったっていうのは?」と怪訝そうに彼女へ聞き返した。
 




