第五十話 ほんの些細なこと 10
「あははははっ! やっぱりキミ面白いよ!」
少女は卒然として笑い出し、その笑い声を教室中に響き渡らせた。 先生はぽかんと少女の呵々大笑を観察している。 私も当初は先生と同様にして少女の行動を見守っていたけれど、先の少女が発した『キミは面白い』という言葉を数度咀嚼しているうちに、何故だか少女の大笑は私を大いに嘲っているかのよう受け取れてしまって、途端に恥ずかしさと訳も分からぬ悔しさが胸の内から込み上げてきて、居ても立っても居られなくなった私は、
「そんなに笑わないでよっ! 別に私はおかしい事言ったつもりはないからっ!」と、つい声を荒らげて、感情的に少女へ怒りをぶつけてしまった。
「あはは、ごめんごめん。 でも普通、借りを作りたくないなんて言葉は心には思ってても口にはしないと思うけどなぁ。 私だってそんな事言われたの生まれて初めてだもん」
けれど少女はあっけらかんと私の怒りを受け流したあと、至って冷静に私の発言を分析してきた。 言われてみればその通りだ。 私だってそんな言葉は映画などの物語でしか聞いた事が無い。 だからこそ、まるで私が物語の主要人物であるかのような気取った台詞を恥ずかしげも無くさらりと宣ったという事実が、今になって押し寄せて来たのだろう。 先の羞恥の主な要因はこれに違いない。
「それは、その、言葉のあやというか、なんというか……と、とにかくっ! 私はあなたに借りなんて作りたくなかったのっ!」
駄目だ。 普段の私の冷静さが完全に迷子になっている。 これでは何の理屈にもなっていない。 ただの幼子の駄々捏ねと一緒だ。
「そんなの、私は貸しだなんてこれっぽっちも思ってなかったんだから貸しっぱなしにしてればよかったのに。 律儀だなぁキミは」
「あなたはそれでいいのかも知れないけど私はそういう訳にはいかないの! 大体あなたが――」
「はいはい、その辺にしとこうか。 君たちの親も心配してるだろうし、そろそろ校門の方に行かないと」
私と少女の言い争いに割って入ったのは荒井先生だった。 先生の仲裁を受けて少し冷静になってから、私は何故これほどまでにムキになっているのだろうと不思議に思った。 こんな事、小学校時代には一度も無かったのに。
ひょっとすると私は私を意識してくれているこの少女の存在を嬉しく思ってしまっているのだろうか――いやいやいやと、私は数度大きくかぶりを振った。
ならばこの妙な気持ちは一体何由来なのだろうと心当たりを探っては見たけれど、それは見つかる筈も無く、ただただ私の心に靄を掛け続けていた。
それから私と少女は先生と共に校門へと向かった。 校門までの道のりの途中「そういえば二人は友達なの?」と訊ねられた。 もちろん私は「違います」と断言した。 一方少女は「今日会ったばかりだけど、友達になれたら楽しそう」などと、勝手な事を言っている。 友達という単語を使われた時、私の胸に馴染みのない鼓動が一つ鳴り響いた事は、先生にも少女にも知られたくなかった。
すると先生は「だったら、もっと親交を深めないとね」と微笑しながら私たちに伝えてきた。 先生の言葉の真意も理解できないまま、私たちは校門へと辿り着いた。 そこには既に多くの生徒と保護者が集まっていて、自身の子供の晴れ姿を撮影しているのか、校門周辺のあちらこちらで保護者がスマートフォンやカメラを手に生徒を撮影している。
かくいう私も母に『お父さんに見せたいから、校舎をバックに何枚か写真撮らせてね』と事前にお願いされていたから、後で撮影に応じなければならない。 ただ、現在の校門周りはそれが目的で生徒と保護者でごった返しているから、ある程度混雑が収まってからでないとおちおち撮影も出来ないだろう。
「君たちは行かなくていいの?」
撮影の事を言っているのか、荒井先生は私と少女にそう訊ねてくる。
「今はどこの場所もいっぱいで撮影出来そうにないので、もう少し混雑が収まってから母を探して撮ります」と、私は答えた。
「私は大丈夫です! 今日お母さん仕事で忙しくて来れなかったので」
変わって少女は今日の入学式に保護者と連れ添っていない事を明かした。
「お母さん、お仕事大変なんだね」と、荒井先生が少女の境遇を斟酌している。
「そうなんですよー。 私が生まれる前にお父さんが病気で死んじゃったので、それからはお母さんが働いて私を育ててくれてるんです」
「そっか。 立派なお母さんなんだね、尊敬するよ」
この少女にそうした暗い家庭事情があったとは露知らず、私はこの少女を軽躁だの人として絶対に付き合いたくないだのと何度も胸中で罵ってしまった事に対する忸怩の念を覚えた。 ならばひょっとするとこの少女も私と同様、特待狙いでこの中学に入学したのだろうか。
あまり人の家庭事情になど足を踏み込みたくは無いけれど、先の話からこの少女が片親なのは不本意ながら知ってしまった。 だとすると、別に彼女の家庭を貶めるつもりなど毛頭ないけれど、ただ現実的に女手一つで子供を育てつつ私立中学に通わせるだけの余裕は無いだろう。
そしてこれはまったく私の偏見になってしまうけれど、これまでの少女の言動から推量するに、この少女が特待を獲得しているとは到底思えない。 それこそ、この少女が今ここに存在している以上、この中学校の入試試験に合格した事は間違いないのだろうけれど、やはり、特待を持っているような風貌には見えない――などと、ひょんな事から彼女の家庭事情まで知ってしまった私はますますこの少女の人となりを知りたくなってしまっていた。




