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そうして君は僕を知る  作者: 琉慧
第五部 太陽は月を照らして
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第五十話 ほんの些細なこと 1

 女の子は初恋の相手を決して忘れない、望ましい結末でなくても――

 あの子は確かに、私の初恋の相手だったのだろう。 だからこそ私は未だにあの子の事を忘れられないでいるし、あの子にぬぐいようのない罪悪感を感じているのだと思う。


 私の家はそれほど裕福な家庭では無かった。 けれど、それを不幸だなどと一度も思った事はない。 坂井家の長女として産まれた私は、両親からの多大なる寵愛ちょうあいを受けて育てられた。 母の愛、父の優しささえあれば、私は幸せだった。


 そうした慈愛にあふれた父母が唯一私に口うるさく言っていたのは、『勉強だけはしっかりとしておきなさい』という言葉だった。 幼少期の私にとってその言葉はとりわけ私の心を動かさなかったけれど、父母がそう言うのならばと、私は何の疑いも無く二人の言葉を信仰し、遂行した。


 自分で言うのも何だけれど、私は物覚えが良い方だった。 それに加え何かを学習するという行為に対しても意欲的で、そうした性質も助けたのか小学校に入学してからというもの、私はただの一度も同級生にテストの点数で負けた事が無かった。


 テストの結果が出るたびに先生やクラスメイトは凄いだ何だと私を持てはやしたけれど、私にとっては覚えた知識をそこにぶつけているだけであって何の感慨も無く、正直、そうした過度な称賛は私にわずらわしさしか覚えさせなかった。


 ただ、父母の時だけは違った。 小学校で返された満点のテストの数々を父母に見せる度、父母は顔をしわくちゃにしながら満面の笑みを浮かべて私の頭を大げさに撫でつつ『よくやった』と褒めてくれた。

 何故だか知らないけれど、その時ばかりは私も心から嬉々という感情が湧き上がってきて、自然と頬が緩んでいた事をよく覚えている。


 今思い返せば、その時期の私は恐らく、他人に興味が持てなかったのだろうと思う。 それは別に他人を見下していたり、達観が過ぎていた訳でもなく、本当に、自分自身と肉親以外の他人にまるで興味が湧かなかったのだ。 だから私はクラスメイトとの時間より、知識をむさぼる時間を選んだ。


 もちろん、知識は見る見るうちにつちかわれた。 しかしその代償として、小学生高学年になった頃には、私には友達と呼べる友達など一人もいなくなっていた――いいえ、そもそも私には生来から友達など只の一度も出来た事が無かった。 だから、代償だなんて大層な言葉を使用したのはほんの誤謬ごびゅうだ。 成るべくしてそうなった。 それだけの話だ。


 それから私が小学六年生に進級した年の――朧気おぼろげな記憶を辿たどると、あれは夏休みが明けて間もなくの、残暑も厳しい長月の時節、私は放課後個別に担任の先生に呼び出された。 小学校において先生に呼び出されるというと、決まって何かしらの悪さ(・・)をしでかした時くらいのものだけれど、別に私はそうした事情で先生に呼び出されるような事をしでかした覚えもないし、私を呼び出す時の先生の態度がやけに柔和で、なにか別の用事があったのだろうという事はあらかじめ理解出来ていたから、当然恐れなどという感情は湧いてくるはずもなく、私は素直に職員室へと向かった。


 職員室には既に担任の男の先生が自身の席に腰を下ろしていた。 私は先生の席へと近づいて「何のお話ですか」と冷静にたずねた。 すると先生は机の上に置いていた一冊の冊子を手に取り、それを私に手渡した後「坂井さんさえ良ければ、そこの中学校を目指してみないかい?」と私に伝えてきた。 先生の言葉に要領を得られなかった私は、はてなと首をかしげつつもその答えを得る為に冊子をめくった。 その冊子は、とある私立中学校の学校案内が事細かにつづられたものだった。


 何故先生が何の脈絡もなくこうしたものを私に勧めてきた理由については、次の先生の言葉で判明した――小学校の夏季休暇に入る前の二者面談の際、先生は坂井さんの母から君の学力に見合った中学校を探して欲しいと頼まれていた。 先生も坂井さんの学力はお世辞抜きで素晴らしいと思っている。


 何せ君はこの前の授業の際、解ける筈が無かろうと先生が意地悪で黒板に書いた分数の難関問題をたちまち解いてしまうほどの洞察力と知識の持ち主だから。 そうした理由もあって、君のご両親も先生も、君をこのまま地元の公立中学に入学させてしまうのは惜しいと思った。


 けれども悲しいかな、君の学力に見合う公立中学は我が県には無く、唯一君の学力を十二分に発揮出来るであろう県内の中学校を見つけたはいいけれど、そこは公立ではなく私立。 当然公立とは違い、学費が掛かる。 僭越せんえつながら君のご家庭に君を私立学校に三年間通わせるだけの余裕が無い事も君の両親から聞き及んでいる。


 それにこの中学校はこの町から電車で一時間以上も掛かる遠距離で、通学には不便を感じるかも知れない。 ただし、そのパンフレットにも記載されてある通り、その学校には特待生という制度がもうけられており、それに選ばれると入学金や年間の授業料はもちろんの事、教科書代、学食代、更には交通費代すらも全て全額免除される。


 無論、特待生にそうした恩典が与えられるものだから、その私立中学の倍率はすこぶる高く、仮に受験に合格したとしても、試験の結果によっては特待生に選ばれない可能性も無きにしもあらず。 それでも先生は、君がこの私立中学を受験する価値があると思っている。 君の母は、この中学への受験の是非を君の意思にゆだねると言っていた。 あとは、君次第だ――


 先生の語った話は私にとって突拍子もない申し出に違いなかったのだろうけれど、意外にも私はこの受験に対し意欲的だった。 もちろん特待生の権利を得る事によって私の修学に掛かる経済的な父母への負担を私自身が軽減ないし全額免除出来るかも知れないという可能性も、私の心の底から溢れ出んばかりに滾々(こんこん)と湧いてくる意欲の一役を買っていたのだろうけれど、それ以上に私は、現状より遥かに質の高い知識を学べるという環境に何よりの魅力を感じてしまっていた。

 この時初めて、私という人間は知識の探求というものにどこまでも貪欲なのだという事実を思い知らされた。

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