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そうして君は僕を知る  作者: 琉慧
第五部 太陽は月を照らして
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第四十九話 重ねた手、寄り添う心 5

「ふぅ、食べた食べた。 ごちそうさま。 君も満足してくれた?」

「はい、どの料理もおいしくて大満足でしたよ。 ごちそうさまでした」


 午後は二十一時を少し回った頃、僕たちは互いに食事を終えて一息ついていた。 さすがに全体の量が多すぎて全ての料理をたいらげてしまう事が出来なくて玲さんに申し訳なかったけれど「元々多めに作ったつもりだし、残ったら明日にでも食べるから無理はしないで」という彼女の言葉を食前に聞いていたから、玲さんの料理を残すという後ろ暗さはぬぐえなかったけれど、過食が過ぎて体調を崩してしまって彼女に迷惑を掛けるよりかは増しだから、腹()分目くらいで箸を止めた。


「そうだ、君って今日お風呂はどうする? いちおう一通りの準備はしてるけど」

 ふと思い出したかのよう、玲さんが僕の方に首を回しながら聞いてくる。


「お風呂は家を出る前に済ませてきたので大丈夫ですよ」

「そっか。 まだ入ってないんだったら君がお風呂入ってるうちに片付けしとこうと思ったけど、それなら別に気にする事もないかな」


「はい。 そういう玲さんはもうお風呂入ったんですか?」

「んーん、まだだけど私結構お風呂長いから片付け終わってからでもいいかなーって」

「それじゃあ僕が片付けしときますから、玲さんはお風呂入ってきてくださいよ」

「さすがにそれは悪いでしょ。 君はお客さんなんだし、お客さんに片づけしてもらってる間に家の人がお風呂入ってるってのは礼儀に欠けるでしょ」


「でも、全部片づけ終わってから玲さんがお風呂に入ってたら二十二時を大幅に超えちゃうと思いますし、その間一人で待ってるのも寂しいので、やっぱり僕が片付けをして玲さんがお風呂に入るのが一番時間的に効率が良いと思うんですけど」


 ――などといういずれも一歩も引かぬ姿勢でああだこうだと論判を繰り広げつつ、「君がそこまで言うならそうさせてもらうよ。 でも、残った料理の保存は君一人じゃ無理だろうしそこは私がやるから、あと洗い物だけになるまでは私も手伝わせてもらうよ」と最終的に玲さんが譲歩してくれて、その案で双方納得したあと、僕たちは食後の片づけを始めた。


「――それから、洗い終わった食器はそこの乾燥機の中に入れといてくれたらいいよ。 もし入りきらなかったら適当にその辺に並べておいて。 私がお風呂から上がった後に片付けるから。 それじゃ、悪いけどあとはお願いね」


 玲さんは僕に片付けの要領を伝えたあと台所から去って風呂へと向かった。 途端に台所はしんと静まり返った。 耳を澄ませば雪のしんしんと降る音さえ聞こえてきそうなほど静謐せいひつで落ち着いた夜だ。 そうして夜のいやに静かなのをしばらく堪能していると、洗面所の方からドアを閉めたような音が数度聞こえてきた。 どうやら玲さんが風呂に入る準備をしているらしい。


 それから再びドアを閉めたような音が一度だけ聞こえたあと、洗面所の方から大きな音は一切しなくなった。 きっと今頃彼女は湯舟に浸かっている頃だろう――と、すっかり浴室方面に聞き耳をそばだてていて洗い物の手がまったく動いていなかった僕は、いけないいけないと何度かかぶりを振って自身を戒めたあと、食器洗いを開始した。


 しかし、人様の家の台所で洗い物をしているというのは何とも奇妙な感覚だ。 基本的に台所という場所は身内や家の者しか立ち入れない聖域めいたイメージがあるから、そうした不可侵領域で黙々と食器を洗い続けている僕がひどく大胆不敵のように思えてしまう。

 しかし玲さんは僕一人に台所での作業を任せてくれた。 大袈裟かもしれないけれど、その事実は玲さんがそれだけ僕の事を信用してくれているという証だったのだろう。 そう思うと、ちょっとばかり鼻っ柱がこそばゆくなってくる。


 たちまち手で鼻を掻こうと思ったけれど、今両手は濡れていて掻くに掻けなかったから、僕はかろうじて濡れていない前腕の中間辺りで何度か鼻を擦った。 当然そのあいだ洗い物の手は止まる訳で――僕の耳はまた浴室の方へと意識を向けてしまった。 タイミングが良いのか悪いのか、きっと湯舟から上がったであろう水の激しく移動する音がたちまち聞こえてきて、次に風呂桶を床に接触させたような音が僕の耳を襲撃し、それから勢いの良いシャワーの音が聞こえてきた頃には、僕の頭の中は『玲さんが今まさにお風呂に入っている』という情報にまったく支配されてしまっていた。


 似たような場面は古谷さんの家でもあったけれど、あの時は彼女が風呂に入っている音など一切聞こえてこなかったし、そもそもその音を聞こうなどとは一切思っていなかったから、あの時の状況と比べるだけ時間の無駄だ。 それにしても、浴室の音とはこれほどまでに判然はっきりと聞こえてくるものなのだろうか。


 玲さんの家の年季にかんがみて、ひょっとすると壁の防音性能が現今の技術に比べて劣っているのかもしれない。 浴室から居間をへだてた台所でこれ(・・)なのだから、居間を抜けて廊下に出た日には玲さんの一挙手一投足によって浴室内に発生するすべての音が丸聞こえになってしまうだろう。 覚えず僕は生唾を飲み込んだ。


 ――ああ、駄目だ。 こんな浮付いた思考を玲さんに読まれてしまったら僕は今日寝るまで玲さんにからかわれ続けてしまうに違いない。 それに洗い物はまだ半分も終わっていない。 僕がやましい妄想を抱いている内に玲さんが風呂から上がってきてしまったらそれこそ大目玉だ。 これは一つ物理的ないましめを食らわせておかないと僕の作業の手が鈍ると断定した僕は、


「……痛っ!」


 自身の額に自身で弾いたデコピンを食らわせた。 割と手加減抜きでデコピンを打ち抜いたせいか、次第に額にじんじんと痛みが走ってくる。 しかし、その痛みのお陰で頭の中にふわついていたやましい妄想は粗方吹き飛んでくれた。 また妄想が頭の中を巡らない内に洗い物を済ませてしまおうと取り決めた僕は、水道のレバーを操作して水を出し、その水の音のみに意識を集中させた。


 しかしさっきよりやけに水の出が弱いと思った矢先、恐らく玲さんがシャワーを使用しているのだろうと無意識のうちに考えてしまい、シャワーを使用する玲さんの姿を脳裏に思い描いてしまった。 ついさっき自身を戒めたはずなのにたちまちこんなはしたない妄想で玲さんをけがしてしまうとは、夕食作製の時といい今といい、今日の僕の意識は散漫にも程がある。


 そうした自身の浅短せんたんさを改めて認めた僕は、手が濡れている事もいとわずに先の戒めの時と同じ場所に手加減抜きのデコピンを食らわせた。 一度目よりも強い力で額を打ち抜いたから、目の前にちかちかと火花のようなものが散った。 額の痛みをこらえつつ、そもそもいちいち手を止めてしまうからこうしたやましい妄想を僕の脳裏にふけらせる猶予を与えてしまうのだと結論付けた僕は、もう何が起ころうとも食器を洗い切るまで一切手を止めないぞと心に決めた。

 さぁ、一秒でも早く洗い物を済ませよう。 これ以上僕の額が不自然に赤くなってしまわないうちに。

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