第四十八話 幸福の定義、初恋の行方 7
それからほどほどに古谷さんと談笑を交わした後、そろそろどちらかの電車が到着するだろうという事で僕たちは公園を去り、再び駅へと向かった。 駅舎の掛け時計で時刻を確認すると時刻は十一時前だった。 どうやらあの公園で一時間近く古谷さんと語り明かしていたらしい。 古谷さんも時計を見たのか「もう十一時だったんですね、全然気にしてなかったです」と、まったく時間に対して無頓着だったのを微笑しながら語った。
気の合う人との会話というものは、どうしてここまで湯水の如くに時間が流れ去ってゆくのだろうか。 時間の流れは一定だと言うけれど、僕はそうは思わない。
思うに、時間という概念はこの世に生を持つ総ての生きものに対し平等に与えられる通貨のようなものだと僕は考える。 とある事柄に熱中したいという願いは、時間という通貨を支払って叶えられるからだ。 その為にはたとえ数十数百数千の時間を費やしたとしても惜しくはない。
対して、自身の望まぬ事柄の進行を止む無くされた時、人は時間という通貨を支払う事をひどく厭う。 これこそが『楽しい時間はあっという間に過ぎ去って、望まぬ時間の一分一秒は億劫なほど永い』という感覚の正体なのだと思う。 と言う事は、僕は古谷さんとの時間を『楽しい』と感じていて、先の古谷さんの時間に対する発言から察するに彼女もまた、僕との時間を『楽しい』と感じてくれていたのだろう。 僕にはその事実がたまらなく嬉しかった。
もう、古谷さんが僕を好いていて、僕が古谷さんを好きになろうとしていた頃の、風邪を拗らせ損ね続けた微熱のような日々は僕の手元には二度と戻って来ない事は自覚しているけれど、それでも僕は友達として、そして一人の人間として古谷さんの事が好きだから、これからも僕は古谷さんの友達で在り続けたい。
先に電車が来たのは僕の方だった。「それじゃ古谷さん、よいお年を」「はい、ユキくんもよいお年をっ」と年末恒例の挨拶を交わしたあと僕は電車に乗り込んだ。 ドアが閉まって電車が発車し始めた後も古谷さんは僕に手を振り続けて見送ってくれた。 僕もドアの窓ガラス越しに、古谷さんが見えなくなるまで手を振り続けた。
夏頃にこうしてユキくんを見送った覚えがあるなと、私はふと思い出した。
あの時期の私はまだユキくん一筋で、恋に恋する少女みたいに彼と花火大会へ行く日を今か今かと待ち望んでいた頃だ。 そして花火大会の日は色んな事があった。 今でも一つ一つの事柄を鮮明に脳裏に思い起こす事が出来るほど、あの日の事は私の記憶に新しい。
でも私はこれから、そうした時間を三郎太くんと過ごしてゆくのだろう。 今日だって急ではあったけれど、三郎太くんとイルミネーションを鑑賞しに行くという予定が立ってしまった。 そうした過程を繰り返す事で、私とユキくんとの思い出が上書きされてしまうのだろうかという不安が無いわけでは決してなかった。
でも、私は信じている。 そういう大事な思い出は、きっと上書きされずに私の心の奥底に残っていてくれると。 それは別に私が未だユキくんの事を諦めきれない未練がましい女だと言っているのではなくて、その人の人生を彩る思い出というものは楽しい思い出にしろ辛い思い出にしろ、選んで消し去れるようなものでは無いものだ。
そもそも、私の青春の一ページにユキくんとの思い出はしっかりと綴られているし、何より、陰ながら私を救ってくれて、私という人間をここまで変えてくれた人の事なんて、忘れたくても忘れられる筈がない。 その思いは最早初恋だとかのそういった浮付いたものではなく、私は友達としてユキくんの事が好きだし、心から尊敬している。 彼がトランスジェンダーだなんて関係ない。 彼は私たちと同じくしてこの世界で息をしている綾瀬優紀という一人の人間なのだ。 その認識はこれからも変わらず私の心に鎮座し続けるだろう。
――いけない。 三郎太くんの前でユキくんユキくんと言っていたらきっと三郎太くんは彼に嫉妬してしまうだろうし、それ以上に未練がましい女だと思われるのも嫌だから、極力私の方からは三郎太くんの前で彼の話題を出さないように気を付けておかなければならない。
ユキくんの乗り込んだ電車はもう完全に見えなくなった。 私の乗る東方面行の電車はあと十数分で到着する。 十数分なんてすぐだけれど、他に乗客も居ない上に到着時間まで乗り込み口に立ち呆けているのも少々生真面目が過ぎるから、私は乗り込み口の後方に設置されているベンチに向かい、腰を掛けた。
それから特に用もなくスマートフォンを手に取ってSNS上に流れている時事ニュースを適当に流し読みしているうちに、そういえば今日の帰り道の途中の真衣の問いかけに対してユキくんは今日、何やら大事な用があると言っていた事を思い出した。
真衣ではないけれど、実のところ私も彼の用事をデートだと思ってしまっていて、彼は特に焦る様子も無くその疑りを否定していたから恐らく彼の言い分は本当だったのだと思う。 じゃあ一体、彼の口にした大事な用とは何だったのだろうか。
外国ではクリスマスと言えば家族で過ごす時間だと聞いた覚えがあって、綾瀬家でもその慣例に倣い、家族との時間を大事にしているのかとも勘繰った。 ひょっとすると彼のお兄さん達が帰郷でもしてくるのかもしれない(ユキくんのお兄さん達が家を出て郊外で働いている事は以前に彼本人から聞き及んでいた)。
それなら、ユキくんがデートではない大事な用だと言い切ったのにも頷ける――と、ここまで彼の行動を推察しておいて、私は何をそこまでユキくんの予定を気にしているのだろうと疑問に思った。
別にデートだろうと私にはもう関係のないはずなのに。 やはり私の心の中にはまだ、彼の事が好きだったという強い思念が残存しているらしい。
しかし、それも仕方の無い事なのだろうと、私は自身の未練染みた思いを納得させようとしていた。 だって、その気持ちを諦めたとはいえ、半年間も慕い想い続けた相手の事をすっぱり忘れ去る事なんて出来る訳ないじゃないか。 それが私の初恋の人だったのだから尚更だ。
――ああ、そうだ。 認めよう。 初恋だった人のデートの相手なんて気になってしまうに決まっている。 ただ、ここ数週間ユキくんは消沈気味だったし、その間に恋人を作れる余裕なんて無かっただろうから、やっぱりユキくんの言っていた通り、デートではないけれど何かしらの大事な用事なのだろう。
これ以上の詮索は無意味だと悟った私はスマートフォンを制服のポケットにしまい込み、ただじっと電車が来るのを待った。 すると数分後にスマートフォンがバイブレーションと共に着信メロディを鳴らし、誰からだろうと通知を確認してみると相手は三郎太くんで、それはSNS宛のメッセージだった。
[今日行くイルミネーションの情報調べてみたんだけど十八時から二十一時までやってるらしくて二十時前後が一番人混みが激しいみたいだから、ちょっと早めに行って混まないうちに見物して、そのあとその辺で飯でもどうだ?]
どうやら三郎太くんは本日行われるイルミネーションの詳細について色々と調べてくれているらしかった。 私が変に発破を掛けたから彼を張り切らせてしまっているのかも知れない。 でも、彼がそこまで私を気に掛けてくれているという事実は素直に嬉しい。 途端に今日の彼とのデートが待ち遠しくなってくる。
[もうそこまで調べてくれてたんだね、ありがと三郎太くん。ご飯もオッケーだよ。もちろん割り勘でね]
『今日の飯代は俺が持つぜ』などと言いかねなかったから、私は先に釘を刺しておいた。 返事はすぐ来て、
[やっぱ見抜かれてたかぁ。さすが千佳ちゃんだぜ。んじゃ割り勘って事で!集合時間は何時にする?]
――ああ、楽しいな。 まだ午前中だっていうのに、もう心が躍ってる。 何だかんだと言いつつも、やはり私はもう昔の私ではなくて、今の私は三郎太くんが好きなのだと実感した。
結局私はユキくんという星に降り立つ事は出来なくて、最終的に三郎太くんの星に惹かれてしまったけれど、私というちっぽけな星がここまでの大冒険をしてこられたのも、すべてはユキくんの星の引力が私を引っ張り続けてくれたお陰だ。
だから私は彼という星を忘れない。 かと言って、固執するつもりもない。 ふと夜空を見上げた時に思い出すくらいの曖昧さが、ちょうど良い。
改めて、さようなら、私の初恋。 いつか歳を重ねてそれを思い返した時には、少し酸っぱくてほんのり甘くもあり最後はちょっぴり苦みのある何とも言えない過ぎ去った青春の味を私の味蕾に与えて下さい。




