第四十八話 幸福の定義、初恋の行方 6
僕の覚えている限りでは、自身を女性と自認しているトランスジェンダーの男性が女性用トイレを利用し、年端もいかない女児に性的な暴行を働いたというニュースを見かけた事がある。 そうしたニュースを見かける度に僕はひどく肩身の狭い思いを抱いてきた。
別に僕の犯した過ちでは無いのだから素直に受け流していればいいのだけれど、それでも、やはり僕自身がトランスジェンダーを自認している以上、僕と同様の性質を持ち合わせている人がそうした愚行を犯してしまうと、『トランスジェンダーの人間はそういう人間なのか』という認知バイアスが他の人の心に強く根付いてしまう。 そうなると、ただでさえ受け入れ難い観念が更に受け入れ難くなってしまう事は自明の理。
いくらトランスジェンダーというマイノリティが世に認められ始めているのだとしても、自身の立場が弱い事を知った上でその立場を悪用する事だけは何を間違えようともしてはならない。 一の悪行は千の善行をも悉く塗り潰してしまうからだ。 ゆえに僕たちセクシュアルマイノリティは自覚しなければならない。 そうした性質を持つ、たった一人の犯した悪行は、何千何万ものセクシュアルマイノリティの人々の首根っこを締め上げる行為と同等であると。
――少し込み入った話になってしまったから古谷さんも二の句が継げなかったようで、同じくして僕も言葉に詰まり、そうしてしばらく沈黙が続いた。
そうこうしている内に駅から電車が発車したらしく、ちょうど住宅に遮られて路線の方までは見えなかったけれど、西へ向かって走り去ってゆくのが電車の走行音で感じ取れた。 それから電車の音が完全に耳に聞こえなくなった頃、
「でも今は、全然そんな事はないです。 こうして改めて二人きりでユキくんと話してみて、ああやっぱりこの人はユキくんなんだなって確認できました。 だから私はこれからもユキくんと友達を続けていきたいと思ってるんですけど、これって私に都合が良すぎるでしょうか」と古谷さんが少し心配そうに言った。
「――ううん、むしろ都合が良すぎるのは僕の方だよ」
僕はかぶりを振りながらそう言い切った。
「えっ、それってどういう?」
古谷さんはきょとんとしながら僕の顔を覗き込むようにしてそう訊ねてくる。
「あれだけみんなの事を突っぱねておきながらも僕の友達でいようとしてくれるなんて、本当、僕にとって都合が良すぎると思う。 ――でも、古谷さんがそう言ってくれるのなら、僕がそれを断る理由なんて無いよ。 だから、古谷さん。 こんな僕でよかったら、これからも友達で居続けてくれるかな」
「もちろんですよっ! だってユキくんは、私の初恋の人なんですから」
古谷さんは満面の笑みを浮かべながらそう言った。
初恋――何とも甘美な響きだ。 僕自身が誰かの初恋であったという事実は、うまく理由は説明できないけれど、ちょっと誇らしい気分でもある。 でも僕は僕自身の性質に囚われ過ぎたが故に古谷さんの初恋を実らせてあげられなかった。 その不甲斐なさは今も僕の心に纏綿し続けている。
ただ、それは決して後悔じゃあ無い。 この半年以上ものあいだ抱き続けた古谷さんへの想いは本物で、それでも僕はあと一歩のところで力及ばず身を引くことになったけれど、僕みたような半端な人間が男らしい三郎太に恋敵として認識されていて、そのうえで負けたのなら本望だ。
唯一惜しむ事があるのならば、それは僕がもう少し早い段階で古谷さんとの恋の決着を付けておくべきだったという事だろうか。 古谷さんからの好意を受け入れるにしろ拒否するにしろ、少なくとも一学期中に僕がいずれかの答えを出していれば、僕もあれほど皆に迷惑を掛けずに済んでいたに違いない。
――けれど、仮にそうなってしまっていたら、きっと玲さんとの縁もその時点で途切れてしまっていたろうから、結局何が正解だったかなんて事はもちろん僕には分からないし、神様にだって予測出来なかったのではなかろうか。
その実、当初僕を破滅へと追いやろうとしていた神様による数多の悪戯を被りながらも、僕は今もこうして古谷さんを含んだ四人の友達と玲さんとの縁を続けている。 少なくとも僕はこの結果を破滅の前兆だなんて思いたくはない――いいえ、間違いか正解かだなんて答えを出そうとするのがそもそもの間違いなのだ。
人生という方程式に明確な解なんてものは存在しない。 仮に道を間違えていたとしても、その時点で落第なんて事にはならない。 きっと誰かがその過ちに気が付いて、正しい道へと修正してくれるはずだから。 大事なのは正誤を明確に見極める事じゃあ無い。 過ちを犯した時に正しい道を明示してくれる人が自分の傍にいてくれる事の方がよっぽど大事なのだ。
「……ふふっ」
「えっ、なんでそこで笑うんですか! ユキくんっ!」
「いや、ごめん。 こんな事を自分で言うのは恥ずかしいんだけど、それでも今日は言わせてもらうよ。 僕は幸せ者だ、って思っちゃってね」
何でもない日常を享受し噛み締める事――それこそが、僕が真に望んだ幸いなのかも知れない。




