第四十七話 愁情の雨 2
――異変が起きたのに気が付いた時には、僕は身体を大きく震わせていた。 いくら今日という日が冬という季節にそぐわぬ温暖だからと言っても、当然夜が更ければ更けるほど気温は下降してゆく。 ましてや、少なくとも一時間程度雨に打たれっぱなしだった僕の身体はすっかり冷え込んでしまったようで、どうやら軽度の低体温症に罹ってしまったのだろうと推断した僕は、しかしその場から動こうとしなかった。 このまま雨に打たれ続けて低体温症が悪化すれば、僕は望み通りこの世を去れるのではと期待してしまったからだ。
それからも雨は弱まる事なく、なおも勢力を強めていた。 そうした雨の勢いとは裏腹に、僕の意識はだんだん朦朧としてくる。 身体の震えは何故だかめっきり無くなって、その代わりに呼吸が徐々に浅くなってゆくのを感じた。 そうして、次第に身体の機能が低下してゆくさまを文字通り身を以って体感しているうちに、僕は死というものを意識し始めた。
けれど、電車に飛び込もうとした時とは違って、不思議と恐怖は感じなかった。 恐らく電車による轢死というあまりにも直接的な方法ではなく、低体温による身体機能低下により齎される間接的な死だから、恐怖が和らいだのだろう。 さっきは死に損ねてしまったけれど、これなら臆病な僕でもやり切れるだろうと、却って嬉しくさえ思った。
それからも僕は雨に打たれ続け――抗う事すら出来ないほどの強烈な睡魔みたようなものが僕を襲ってまもなく、僕は膝に顔を埋めた後おもむろに瞼を閉じた。 眠るように逝けるならば僕にとっても本望だと、僕は薄れゆく意識の中、今日の雨に感謝した。
そうして、この意識が夢か現のどちらに属しているのかさえ判別出来なくなった頃、何の脈絡も無く、ただただ唐突に僕の脳裏に皓皓と浮かび上がってきたのは、玲さんの顔だった。 先の映像は夢だったのだろうか、はたまたそれは現実そのもので、僕の無意識化において何らかの意味を持っていた映像だったのだろうか、いずれにせよ、何故この瞬間に彼女の顔などが僕の脳裏に浮かんだのだろうと怪訝には思ったけれど、玲さんという存在を意識するや否や、僕の心には『生きなければならない』という生命に対する強い執着心が萌し始めた。
――以降の事を僕はあまり覚えていない。 辛うじて断片的に記憶に残っているのは、僕は何とか自宅へ辿り着き、夕飯の時刻を大幅に超過したあげく全身ずぶ濡れで家に現れた僕を目の当たりにした母にめっぽう咎められ、そのまま風呂へ直行し、夕食すら口にせずに自室のベッドに潜り込み、寝苦しさを覚えて夜中に目が醒めたかと思ったら、頭が割れるように痛く、全身が気だるさを覚えていた事だ。
どうやら僕はその時点で高熱を出していたらしい。 そうした倦怠感に苛まれながらもその日は何とか眠りについたものの、次の日目が醒めてもまるで熱が下がっておらず、母に促されて体温を測ってみると、三十九度も熱があった。 やはり昨日の長時間雨に打たれていたのが身体に障ったらしい。
その日僕は登校を諦めて、自宅で療養していた――いや、登校を諦めていたという表現には少し語弊がある。 僕はその日、学校へ行くつもりはさらさらなかった。 昨日、玲さんにあのような愚行を重ねた上、自身の鞄は僕を憎んで然るべき彼女の手元。 たとえ僕の体調が頗る優れていたとしても、僕はもう、学校へ行く事など出来るはずがなかった。 だから、高熱という大義名分のもと、仮病を使わずに学校を休めるという事実は、僕にとってまったく幸いだったのだ。
そうとは言え、三十九度の高熱が出ている事に変わりはなく、僕は午前から午後にかけて激しい頭痛と全身の倦怠感とに苛まれ、床に伏しているだけだというのに息も切れ切れになりながらそれらの症状と戦っていた。 無論こうした状態では眠りに落ちる事すら叶わず、そのうえ高熱によってまともな思考すら儘ならず、僕の頭の中に発生した丸の内部に四角が発生し、その四角が徐々に肥大してゆき、丸を突き破らん勢いで圧迫するなどという不思議で不可解な感覚に何度も何度も襲われた。
午前中は本当に辛かった。 しかし朝一番に服用した解熱剤が効いてきたのか、昼を過ぎてから徐々に体温が下がり始め、思考も穏やかになってきた頃、僕は強い睡魔に襲われて眠りについた。 次に目が醒めたのは十七時過ぎだった。 その時点で僕の身体はかなり楽になっていて、熱を測ってみると三十七度まで下がっていた。
やはり睡眠の力というものは大したもので、全快とは言えないけれども、それでもわずか半日ほどで身体も意識もしっかり機能するようになった事を嬉しく思った。 一時は死をも願った僕が自身の体調の快復を喜ぶだなんて矛盾極まりないけれど、この時の僕の思考には既に『自殺』という不穏な二文字は存在していなかった。
あの時、意識の薄れゆく中、不意に玲さんの顔が僕の頭に思い浮かんだ事によって、まだこの世に存在していたいという生への執着心が僕の心に強く固く根付いてしまったのだ。




