第四十六話 Eclipse 17
「ごめんなさいね、寒かったでしょう。 さぁさぁ、中へどうぞ」
「すいません、お邪魔します」
私は玄関先から土間へと移動した。 家の中に入った途端、ほんのりと味噌汁らしき香りを私の鼻腔に認めた。 下駄箱の上部にアンティーク物の振り子時計が設置されてあったので時間を確認してみると、今は十七時五十分過ぎ。 ひょっとすると夕食を作っている最中だったのかも知れない。 まさに言葉通りお邪魔してしまったようだった。
そうして私がばつの悪い心持を抱いている最中に、彼の母は居間の方から座布団を一枚持ってきたかと思うと、「よかったらここにお座りになって。 今あったかいお茶を入れてくるから」と言って私に近い玄関廊下に先ほどの座布団を敷いて私に着席を促した。
「いえ、お構いなく」
けれども私はそこまで持て成されるほどの事をしていないし、時間も時間であまり長居も出来ないから、私は彼女の厚意に胸を温めつつも、やんわりと着席を断った。
「いいのよ。 家が近いって言ってもあの子の鞄をここまで運んでくるのは楽じゃあ無かったでしょうから。 ちょっと待っててね」
しかし彼女はそう言い終えた後、ちょっと小走りで居間へと入っていった。 そこまで言われてしまったら私もこれ以上彼女の厚意を蔑ろにする訳にもいかない。 私はようように座布団の上に腰を下ろした。
私をこの場所まで送ってくれた先の女性といい、彼の母といい、この地域の人々は人情に篤いように思われる。 そうした思いを巡らせている内に、居間の方からおぼんを両手に支えた彼の母が現れて、「急だったからこんなお茶請けしか無かったんだけど、よかったらどうぞ」と一言添えて、彼女は私の横におぼんを置いた。
おぼんには、一つの饅頭が載せられた皿と、お茶の注がれた湯飲みが載っていた。 湯飲みからは湯気が立っている。 夕食時に憚りも無く訪問してしまった私を邪険に扱うどころかここまで丁重に持て成してくれた彼の母の懇篤さが身に染みる。 インターホンを押す間際に拵えていた後ろ暗さが今になって助長し、私を襲った。 しかしここまでの待遇を受けておいて今更遠慮するというのも却って失礼にあたるだろうから、
「すいません、いただきます」
今は素直に持て成しを受け入れていた方が良いだろうと思い、私はひとまずお茶請けの饅頭を一口齧った。 それから私はお茶を啜りつつ彼の母としばらく学校の事について話し込んだ。 そうしてお茶を飲み終えてからほどほどに会話の熱も落ち着いてきた頃、私は「これ、優紀くんの鞄です」と、彼女の前に彼の鞄を差し出した。
「はい、確かに受け取りました。 それにしても生徒会も大変ね、生徒の忘れ物を家まで届けなくちゃあならないなんて」
「普通の忘れ物くらいだったら持ち主さえ分かれば次の日に学校で渡すんですけど、今回は鞄丸ごとで、中に大事なものも入っている可能性もあったのでお届けにあがったんです」
「なるほどねぇ。 立派なお仕事だと思うわ。 今後こういう粗相がないよう、あの子には私の方から言い聞かせておくので」
ここでしばらく沈黙が続いた。 先の言葉から読み取るに、彼女はもう、私の目的は果たされたと見なしているだろう。 つまり、私がこれ以上ここに滞在していれば不審に思われてしまう。 しかし私はまだ、最大の目的を果たしていない。 そしてそれを果たさないまま、この場所を離れる訳にはいかない。 ならばここはもう、多少無理強いしてでも――
「――あの」
私は彼の母を呼んだ。
「はい?」
すっかり気が抜けていたのか、彼女は少し驚いた様子で応答した。
「実は鞄の他にもう一つ、優紀くん宛に伝言を預かっていて」
「あらそうだったの? じゃあ私が聞いておきましょうか」
「……できれば、私の口から直接話したいんですけど、今、優紀くんって起きてますか」
「さっき部屋に顔を見に行った時は起きてたから、多分あれから寝てないとは思うけど、ちょっと待っててね、確認してくるから」と言い残して、彼女は家の奥へと入っていった。 途中から階段を歩く音がしていたから、彼の部屋は二階にあるのだろう。 それから程なくして階段を歩く音が聞こえてきて、再度彼の母が私の前に現れ、
「さっき部屋を見に行ってきたらあの子起きてて、生徒会の人が鞄を持って来てくれた事と伝言があるって事を伝えたら上がってもらってって言ったから、直接話してあげて」と私に伝えてきた。
「わかりました、じゃあ、お邪魔します」と断って、私はとうとう綾瀬家に足を踏み入れた。
「そこの階段を上り切ったすぐ左にある扉があの子の部屋だから」
階段を上る前に彼の部屋の場所を教えてもらい、私は「はい」とだけ返事した後、階段を一歩一歩上り始め、そうして、彼の居る部屋の扉の前に辿り着いた。
一時はどうなる事やらと思っていたけれど、勢いだけでも何とかなる時は何とかなるものだと感慨深く思いつつ、私は扉を開ける前に何度か深呼吸したあと、扉のバーハンドルに手を掛け、おもむろに扉を開けた。




