第四十六話 Eclipse 1
彼が私の部屋に学生鞄を置き忘れていた事に気が付いたのは、彼が開けっ放しにしていった玄関を閉めてから部屋に戻った直後だった。
「あのバカっ、こんなもの置き忘れていくなんて」
彼への怒りがまだ完全に抜け切っていなかった事も相まって、思わず私は彼の愚直な行動を罵った。 それから頭に上っていた血がだんだんと下りてきて、冷静さを取り戻し始めた頃、私は彼の座っていた座布団の上に腰を据え、彼の鞄の処遇について考え始めた――
さすがに他人の鞄の中身を漁るほど私は落ちぶれちゃあいないけれど、恐らくこの鞄の中に電車の定期券だとか財布だとか携帯電話などは入れていないだろうから、この鞄が無くても彼は電車に乗って帰宅する事が出来るだろう。
ただ、明日は金曜日だから、当然授業は放課後まで行われる。 教科書やノートが無ければ彼も困るだろう。 生徒の中には、机の中に教科書類を入れっぱなしの、いわゆる『置き勉』をする者も居るけれど(昨今置き勉を認める学校が増えているようだけれど、私の通う高校では禁止となっている)、この鞄の重みから推断するに、きっと彼は毎回教科書類を持って帰っていたのだろう。 だから、彼が明日授業を受けるには、この鞄が必要となる。 彼もそれくらいは理解しているはずだ。
けれど、彼からはこの鞄を取りに来る事は出来ないだろう。
約束を破ってまで私の元に現れたかと思えば、卑屈極まりない言動を働いて私の言葉に耳を傾けず、挙句の果てに力ずくで私を押し倒し、私に頬を叩かれてから我を取り戻すと、玄関すら閉め切らずに私の家から逃げ去った。
これだけの愚行を重ねておきながら「鞄を忘れたので取りに戻ってきました」などと言われた日には、私の怒りは頂点に達していたに違いない。 けれども、私の家を去ってから三十分以上経った今もなお彼が私の元に現れたり連絡を寄こしてこないところを見るに、酷く錯乱はしていたようだけれど、その辺の気遣いというか、後ろめたさというものは持ち合わせていたらしい。
と言っても、別に彼を誉めるつもりなどは毛頭ない。 いくら精神的に追い詰められて錯乱状態に陥っていようとも、人としてやっていい事とやってはいけない事の区別くらいは頭で理解出来ていたはずだ。 そんな状態だったからといって情に絆され、なあなあにして良い問題では決して、ない。
ならばけじめをつける為に、警察に突き出すのか? ――いいえ。 確かに彼のしでかした事は一歩間違えれば犯罪になりかねない危険な行為だった。 しかし、私には分かった。 分かってしまった。 彼のあれは、私に乱暴を働く為に起こした行動ではなかった事を。
きっと彼は、必死だったのだ。 それまで散々私に悪態を付いておきながらも、どこかの場面で冷静さを取り戻した時に、私という存在を失う事を恐れたのだろう。 トランスジェンダーである彼にとって私は、おそらく世界でたった一人の理解者。 私が彼にとって何ものにも代え難い存在であるという事実は、彼自身が一番理解していたはずだ。 その代用の利かない理解者を失おうとしていたからこそ、終始自暴自棄かつ支離滅裂な言動を働いておきながらも、最終的にあそこまで必死になって私に救いを求めてきたのだろう。
だから彼の愚昧な行動はやましい気持ちなど一切無い、純粋な行動だったのだ。 悪さをして不貞腐れていた矢先「もうお前の事など知らない」と親に冷たく見放された途端にわんわんと泣き喚いて親に許しを乞う年端もいかない幼子に変わりなかったのだ。
この状況で幼子が頼れるのは、親しかいない。 にも関わらず、救いを求めるその手を邪険に払いのけてしまったら、幼子は精神的に参ってしまう。 そして今、彼は私に拒絶され、精神的に危うい状態に陥っているに違いない。
いくら彼が男の容を完成させたとはいえ、私の力に頼らせず彼を一人立ちさせるのにはまだ早かったのかも知れないと、ここに来て私は私の早計な判断に後悔を抱き始めた。 せめて、古谷さんとの恋仲が決着するまでは、見届けてあげなければならなかったのかも知れない。
彼がこうなってしまった原因は少なからず私にもある。 となれば、やはり私が折れて、彼に救いの手を差し伸べるべきなのだろうか――
――いいや、知るものか。
そもそも彼が私の部屋に訪れた直後にはまだ、彼には幾何かの精神的余裕があったはずなのだ。 私の言葉を受け入れる余地があったはずなのだ。 のに、彼はその余裕や余地をわざわざ卑屈へと変換し、聞く耳を持たないばかりか、私の神経を逆撫でしてきた。
そう。 彼は自ら、私からの救いの手を払いのけたのだ。 まったくの自業自得だ。 今更私が再度手を差し伸べたって堂々巡りになる事は目に見えている。 誰にも頼れなくて嘆いているなら嘆いていればいい。 鞄が無くて困るのなら困ればいい。 この体たらくぶりを晒してよくも男の容を手に入れたなどと宣えたものだ。
――もう、止めよう。 見損ねた相手に悪態を付いたところで、ただただ虚しさが募るばかりだ。 私は深い溜息をついた後、腕を枕にしてテーブルに突っ伏した。




