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自分の学生鞄を玲さんの部屋に置き忘れてきた事を思い出したのは、息も切れ切れに高校最寄りの駅へ辿り着いて間もなくだった。 雨がまだ本降りでなかったお陰で雨によって全身ずぶ濡れになる事は避けられたけれど、ペース配分などまったく考えずに玲さんの家から駅まで走り切ったものだから、今日の冬らしくない温暖な気候も相まって、息が整い始めた辺りから身体全体にじわりと汗が滲んでくる。
僕はひとまず雨の当たらない駅舎のベンチに腰掛け、酷使した身体を休ませた。 それから少しずつ汗が引いてきて、完全に息が整ったと同じくして、僕の精神も落ち着きを取り戻した――矢先、僕は僕のしでかした事の重大さを目の前に突き付けられ、罪悪感に殺されそうになり、頭を抱えた。
何故僕は、あんな馬鹿げた真似をしてしまったのだろう――いくら錯乱していたとはいえ、男が女性を力ずくで意のままにしようとするなど、男として、いや、人としてあるまじき愚行だ。 許されざるべき悪徳だ。 いま玲さんに通報され、まもなく警察に僕の身柄を拘束されようとも、僕は弁明の一つすら上げられない。 犯罪だ。 僕の犯した行為は犯罪だ。 まったく言い逃れの効かない、紛れも無い犯罪だ。
「……う、うぅ」
慙愧の念に容赦無く僕の胸を突き刺し続けられ、僕は泣き声とも呻き声とも覚束ない掠れ声を漏らした。
頭を抱え、目を閉じていても、雨が次第に強くなっていくのが分かる。
鞄の事が気がかりだけれど、今更取りに戻れる筈がない。 幸いな事に、電車の定期券は財布に入れていたから、ひとまず地元へ帰る事は出来る。 下校のピークは過ぎたとはいえ、まだちらほらと生徒の姿が目に付くから、ずっとこの場所に居続けても通りかかった生徒に怪しまれてしまう。 僕はようように重い腰を上げ、改札を通ってプラットホームへと向かった。
プラットホームの屋根は全体的に広がっている訳ではなく、中央の一部分にしか設置されていないから、既にホームに居た数人の生徒たちはみな、雨の飛沫から逃れるよう、乗り込み口より三歩ほど遠ざかった屋根の下で待機していた。 その生徒の中に顔見知りは居なかったけれど、今はあまり誰にも近づきたくなかったから、僕は既にホームに居た生徒から出来る限り離れた所で電車を待った。
現在の時刻は十六時四〇分。 改札を通過する前に確認した時刻表によると、十六時二七分着の電車が十数分前に出発してしまったから、次の電車は十六時五八分着の電車となる。 あと二〇分程度は待たなければならない。
雨はすっかり大雨となって、容赦なく屋根にばたばたと打ち付けている。 屋根が無ければ一瞬でずぶ濡れになる事だろう。 普段の僕ならば例の心持が働いてこの状況に心を躍らせていただろうけれども、今はそうした状況を楽しむ余裕すらなく、僕はただただ雨の喧騒なのを耳に許しているだけだった。
それからしばらく電車を待っていると、僕から離れた所に居た数人の生徒たちの笑い声がホームに響いた。 僕は笑い声のした方に少し首を回した。 どうやらいつの間にか新たな男子生徒二人がホームに来ていたらしく、先にホームに居た一人の女子生徒と合流し、談笑を交わしているらしかった。 そして僕はその二人の男子生徒と女生徒を無意識の内に僕と竜之介と古谷さんとして見立ててしまい、ひどい孤独と喪失感に襲われた。
――全てが僕の思い通りに行ってくれていれば、今日も普段通り校門で三郎太と別れ、駅までの道のりの途中に平塚さんと別れ、残った竜之介と古谷さんの三人で駅へと向かい、電車が到着するまで三人で談笑し、先に到着した上り方面行の電車に乗り込んだ古谷さんを見送り、その十数分後に到着した下り方面行の電車に竜之介と共に乗り込み、次の駅で竜之介と別れ、そうして、一人座席に着きながら窓の外を眺めつつ、心の中でこう呟いたろう。 『今日も良い一日だった』と。
けれど、僕が心の中でそう呟く日は、もう、二度と、訪れない。
僕が素直にありのままの事実を受け入れていれば、まだあの日常は形を保っていたのかもしれないというのに、あの日常はもう、僕の手元には戻ってこない。 そうなってしまったのは、他の誰でもない、僕自身の所為だ。 僕自身の愚かな行いによって、僕が大切に大切に守らなければならなかったはずの日常を僕自身の手で、跡形も無く粉々にしてしまったのだ。
思わず僕は、彼らから目を反らした。 男どころか人としての道すら踏み外し、これまで大切に築き上げてきた交友関係をも蔑ろにし、そうして、総てを失い落魄し切った今の僕には、彼らは眩しすぎる。
――いいえ、彼らだけじゃない。 およそこの世界が、僕にとっては眩しすぎたのだ。 僕見たような紛い者が、いつの日にかこの世の理に適応出来るはずだと信じていたのが間違いだったのだ。
紛い者は紛い者らしく、端から総てを諦めていれば良かったのだ。 そうすれば、僕はこれほどまでに心をかき乱されずに済んだのだ。
「……もう、疲れたな」
覚えず僕の口から零れた悄然の念は、瞬く間に雨によって打ち消された。 それから間もなく上り方面から一本の電車が向かってくるのが見えた。 あれは快速電車だから、この駅には止まらない。 電車のライトはすっかり照度を失った周辺の闇を払うが如くに強く強く点灯している。 電車は速度をそのままに真っすぐこちらへと向かって来て、ライトはいよいよ僕を照らし始めた。 その光は閃光のように強烈だった。 僕は反射的に目を細めた。
――あの電車のライトなら、僕の心に巣食った闇すらも払ってくれるのかな。
僕は線路に向かって一歩、歩を進めた。
――あの光に吸い込まれれば、僕はこれ以上苦しまずに済むのかな。
僕は線路に向かってまた一歩、歩を進めた。
――ひどく疲れてるんだ。 もう、休ませてほしい。
僕は線路に向かってもう一歩、歩を進めた。 屋根に掛かるぎりぎりの所で足を留めているため、足元は激しい雨の跳ね返りによって濡れ始めた。 けれど、今更足元が濡れようが、全身が濡れようが、関係無い。 どのみち僕の意識がこの世界から無くなってしまえば、僕が濡れようが濡れまいが、もはや知った事じゃあない。
光は更に光度を強めながらこちらへ近づいてくる。 僕はまた吸い込まれるように一歩踏み出し、僕の足はとうとう点字ブロックを超えた。 残すところあと一歩。 たったのあと一歩で、僕はこの苦しみから解放される。
さぁ、行け、僕。 もう、これ以上苦しまなくて済むように。
そうして僕は、最後の一歩を――
第四十五話 この世界にさよならを




