第四十四話 溢した水は戻らない 6
「だからってこれまでの君の努力を否定する事はないでしょ。 現に君は文化祭が終わった時点で自分の男の容を認めてたんだから、それまで捨てちゃうつもり?」
「もう、必要ないですよ、そんなもの」と、僕が捨鉢気味に呟くと、玲さんは突然テーブルを平手で思い切り叩いた。 玲さんらしからぬ野蛮な行為と強烈な打撃音も相まって、僕の身は一瞬びくりと竦んだ。
「そんなもの……? じゃあ私はそんなものの為にこれまで君の力になって来たっていうの?!」
玲さんの語勢は先のテーブルへの打撃よろしく荒々しい。 けれど、ここまで激怒している玲さんを前にして、僕の心は不思議と落ち着いて――いや、これは単に全てを諦めているからこそ、一種の無感動の域に達してしまったのだろう――僕の心はぴくりとも動かなかった。 そればかりか、出所の分からない玲さんへの憎しみすら生まれてきて、
「……別に、僕が頼んだ訳じゃないでしょ」
最早自分で自分の意思をコントロールする事も叶わず、僕は僕が思った事を理性と倫理の篩にすら掛けず、そのまま口走ってしまった。
「ああそうだねっ! これは私が勝手にやってきた事だし、今更それを恩着せがましく押し付けるつもりもないよ。 ……でもね、それでも言って良い事と悪い事があるでしょうがっ!」
当然玲さんは更に激怒した。 もう、ここから彼女と元の仲に戻る事など不可能のように思える。
古谷さんは三郎太を選び、三郎太からは見損なわれ、竜之介と平塚さんにも呆れられ、そうして僕が唯一助けを乞える存在だった玲さんにも悪態を付いてしまってこの様だ。
僕は確実に破滅の道へと歩を進めている。 いつ足を踏み外してもおかしくない狭隘な崖の傍を目隠しで歩き続けている。 いや、ひょっとすると僕はもうとっくの昔に崖から転げ落ちていたのかもしれない。 崖っぷちなどという表現は僅かながらも再起の可能性があるからこそ使われる言葉であり、既に崖から転落した者に使用して良い言葉では断じて無い。
そして僕に蜘蛛の糸など降りてこないのも分かっている。 僕は散々神様に悪態をついてしまったのだから、神様が僕を助ける道理など無い。 そればかりか、蜘蛛の糸らしきものを僕の目の前にちらつかせておいて、僕がその糸で崖から這い上がろうとしたのを見計らってその糸を断ち切り、僕に絶対的な絶望を与えて笑い転げるかも知れない。 とどのつまり、どう足掻いても、僕に救済など訪れない――
僕は何の為に、ここまで頑張ってきたのだろうか。
僕は誰の為に、『男』になろうとしていたのだろうか。
男の成り損ないの僕が、男として生きてゆく事が間違いだったのだろうか。
僕はこの世に産み落とされた時点で、普通に生きてゆく事すら許されない存在だったのだろうか。
僕は一体、何の罪を犯したのだろうか。
男か女か。 絶対的で在らねばならない対の世界の自浄作用で、僕という存在が排除されようとしているのだろうか。
障害は、取り除かれて然るべき。 僕が抗う事すら烏滸がましい。
――もう、何もかも一切合切、どうでもよくなった。
僕の頭を、胸を、暗澹と覆い尽くすどす黒い負の靄は、僕の生きる気力さえも犯し始めた。 すると途端に、僕は謂れのない恐怖に襲われ、まともな思考が出来なくなってしまった――
何で僕は玲さんに激怒されているんだ? 僕は玲さんに助けを求める為にここに来たというのに、何故こんな事になっているんだ。 ああそうか、僕がまたつまらない事を言って玲さんを怒らせてしまったのだろう。 今すぐ謝らないと。 でも、今の玲さんの態度を見るに、謝罪を果たしたところでどうにもなりそうにない。
僕は、玲さんを心底怒らせ、玲さんに心底嫌われてしまったのだ。 今度こそ、僕と玲さんの関係は終わりだ、いや、終わりなどという表現すら生ぬるい。 破滅だ。 もう二度と、玲さんは僕の存在を許しはしないだろう。 もう二度と、あの溌剌な笑みを僕に向ける事などないだろう。 そして僕は唯一無二の理解者を、僕にとっての太陽を、僕の息が絶えるまで失う事となるだろう――
「――だっていうのに、ほんと馬鹿みたいっ! 見損なったよ、君の事は。 私が今までどれほど君の事を心配して――」
「……え? ちょっ……! わっ!?」
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だっ!!
「何して……やめっ……離して……っ!」
――気が付くと僕は、玲さんの肩を鷲掴みにしたうえで床に押し倒していた。 恐らく、玲さんに一生拒絶されるという事実に耐えられなかった僕の意思が暴走し、こんな言い訳の効かない行動に僕を走らせたのだろう。
「――玲さんは言いましたよね。 僕が道を間違えそうになった時、正しい道を教えてくれるって。 だったらっ! 僕を導いて下さいよっ! 僕を救って下さいよっ! 僕はもう、どうしたらいいのか分からないんですっ! 僕にはもうっ! ……玲さんしかいないんです」
もう、制御が効きそうにもない。 僕の言っている事、やっている事はまったくの支離滅裂なのに、それを止めるだけの理性すらも僕には残されていなかった。
それからふと目に留まった、床に押し付けられている玲さんの苦悶に満ちた表情が、ほんの一瞬、僕の行動と力を弱まらせた――と同時に、僕の左頬は乾いた破裂音と共に激しい痛みに襲われ、覚えず玲さんから身を引いた。 どうやら僕は玲さんに頬を引っ叩かれたらしい。
頬のひりついた痛みによって、僕の自我がだんだんと戻ってくるのを身体と頭で感じた。 それから僕は僕の犯した取り返しのつかない行為に戦慄し、呼吸が乱れに乱れた。 そうして、僕が罪責感に圧し潰されそうになっている最中、玲さんは上体を起こし、僕に押さえられていた両肩のうちの左肩を右手で労わりつつ僕の顔を見据え、
「私を、逃げ道にしないで」と、今にも泣き出しそうな潤んだ目で訴えてきた。
僕はその訴えを耳にした途端、とてつもない自責の念に駆られてしまい、訳も分からないまま部屋の引き戸を力任せに開き、どたどたと階段を駆け下り、靴の踵を踏んでいる事も気に留めず靴を履き、玄関の引き戸を開けた。 外は雨が降り始めていた。 けれど僕は御構い無しに、雨の中を駆け出した。 玄関すら閉め切らず、玲さんの家から我武者羅に逃げ去った。




