第四十四話 溢した水は戻らない 3
その日の放課後、僕は教室で誰とも帰りの挨拶を交わす事も無く、早足で図書室へと向かった。 別に、図書室に用事があった訳ではない。 確実にその人が帰宅しているであろう時間帯を見極める為、十五――いや、三〇分程度、時間を潰したかったのだ。
まもなく図書室に入室した僕は、本を読むでもなく、本を探すでもなく、椅子にすら座る事もなく、適当に歩を進めながら本棚にずらりと並んでいる本の数々を無心で眺め続けて、僕の潰そうとしている時間の過ぎるのをただただ待ち呆け――そうして、時刻が十六時に差し掛かろうとした頃、僕は図書室から退室し、目的の場所へと向かった。
目的の場所までの道のりの途中、僕はふと空を仰いだ。 僕の胸中の如く、昼に仰いだ空よりも淀みが増しに増している。 そのうえ時間帯も助けて、もう夜の帳が下ろされてしまったのかと錯覚してしまうほどに照度を奪われた辺りの風景は妙に不気味で、僕に鬱屈と悪寒を覚えさせた。雨が降るまで、もう数時間も持たないだろう。 僕はいっそう早足で目的の場所へと向かった。
――そうして、辿り着いたその場所には、ほどほどに僕が見慣れた光景が以前と変わりなく広がっていた。 そこは、玲さんの自宅。 僕は彼女に救いを求める為、もう私に関わるなと宣告されたにもかかわらず、性懲りも無く彼女の家を訪問したのだ。
しかし、これまでのように、チャイムすら鳴らさずに玄関の戸を開け放ち、気軽に玲さんの名を呼ぶ事は叶わない。 あれは僕と彼女との間に信頼関係があったからこそ成立していた訪問方法で、彼女との関係が終わってしまった今、その方法を取れば不法侵入にすら成りかねない。 下手をすれば警察に通報、などという結果もありえないとは言い切れない。
かと言って、いち客人として正式にチャイムを鳴らした上で玄関に現れた玲さんと対面したとしても、あれだけ釘を刺しておきながら私の前に現れるとはどういう了見だと、恐らくその場で門前払いを食らう事は請け合いだ。
とすれば、チャイムを押さず、玄関も開けず、顔も合わせずに玲さんとコンタクトを取るしかないという結論に至った僕は、おもむろにズボンのポケットからスマートフォンを取り出し、SNSを起動して玲さんの連絡先を呼び出し、彼女に通話を試みようとした。
これは僕が玲さんと対面せずにコンタクトを取る事の出来る唯一の方法だったけれど、そもそもこの接触方法が必ずしも成功するとは限らない事も予め理解していた。 そればかりか僕は、先の接触方法よりこのやり方のほうが接触を図れる可能性が低いとさえ踏んでいた。
何故なら、直接対面すれば少なくとも何かしらの態度や言葉を玲さんの方から受け取れるだろうけれども、スマートフォンを通じた通話やメッセージなどの間接的対話は、僕の通話の通知なりメッセージを玲さんが確認したとしても、彼女が僕へ返事をする気が無ければそのまま無視を決め込んでしまえば良いだけだ。
今や通話やチャットは現代人に欠かす事の出来ない通信手段だけれど、相手にそれを受け取る意思がなければ、それらの意思疎通の試みは無かったも同然。 そこが直接的対話と間接的対話の大きな違いだ。 だからこそ、怖かった。
今、スマートフォンの画面上に出ている通話ボタンを押せば、たちまち玲さんの携帯端末に僕からの通話の通知が行き届くだろう。 そして彼女はその通知を確認し、どういった判断を下すだろう。
情け深くも通話に応じてくれるのか、はたまた、留守番電話サービスに繋がるまで無視を決め込むか、それこそ既に僕からの連絡の一切を拒否している可能性も大いにある。
通話ボタンを押そうとしている右手の親指が、震え始める。 いや、指だけじゃない。 僕の右手全体が、玲さんに心底拒絶されているかもしれないという恐怖に、震えている。
そもそも彼女を頼ったとして今の僕の境遇を一転させられると決まっている訳でもないし、そればかりか、今この場で玲さんにまで完全に拒絶されてしまったら、僕は二度と僕として、立ち直れないような気さえする。
やっぱり、玲さんに頼るのはよそうか――そうした弱気が僕の行動をまったく殺してしまった矢先、僕の右手に握っていたスマートフォンが突然振動を来した。 思わず目を見開いて画面を確認すると、画面に表示されていたのは、通話承諾画面と、坂井玲という名前。 一体何が起こったのか、まったく理解出来なかった僕は、何故このタイミングで玲さんの方から電話が掛かってきたのだろうとただただ狼狽えていた。
しかし、このまま通話に応じない訳にもいかないから、僕は震える手でスマートフォンを操作し、彼女からの通話に応じた。
「……玲、さん?」僕の声は果てしなく弱々しかった。 それから『私の家の前で何やってんのさ君は』という玲さんからの言葉を耳に認めた僕は、一つの見当をつけたと共に、彼女の自宅の二階の窓を見上げた。 果たしてそこには、スマートフォンを耳に当てた状態で窓から僕を見下ろしていた、玲さんの姿があった。




