第四十四話 溢した水は戻らない 2
あれから丸二日が経過した。 僕は今日も例の場所で一人昼食を摂っていた。 今日の気候は昨日までとは打って変わって若干の温かささえ感じさせるような嘘のように温暖な気候だった。 しかし天気の方は一昨日よりも芳しくなく、雨さえ降っていないものの、空は一面どす黒い曇天に覆われていて、今まさに雨が降り始めてもおかしくはないほどに天気が悪いように思われる。 そうして、現在の天気と同じくして、僕の心持は頗る曇りに曇っていた。
月曜日の諍いから丸二日、僕は三郎太や古谷さんとまともに顔を合わせる事も無く、もちろん会話などはあるはずもない。 竜之介とは高校の最寄り駅で挨拶は交わしたけれど(この二日の間、僕は竜之介と出くわさないよう、わざと普段乗り込む車両を避けて登校していたのだけれど、改札を抜けたあたりでばったりと竜之介に出会ってしまっていた)、それ以来彼が僕の席に近寄る事もなく、放課後も帰りの挨拶も交わさずに一人で帰路に就いていたようだった。
唯一平塚さんだけが休み時間ごとに僕の席に立ち寄ってくれていたけれど、何だか普段より態度が余所余所しく、今の僕の境遇を知ってしまったが故に僕に同情しているのが火を見るより明らかだったから妙にばつが悪く、昼休みも一緒に食堂で食べないかと誘われたけれど、やはり今は一人で居たいと断ってしまったのが彼女の心に刺さったのか、昼休み以降、平塚さんが僕の席を訪れる事は無かった。
――これで良かったのだと理解はしているつもりでいたけれど、やはりそう簡単に彼ら彼女らとの間柄は断ち切れそうにない事も、この二日間で嫌というほど思い知った。 僕だって、自分で手放したくて手放した訳じゃあ無いのだから、甘えだと言われようとも、そこに未練が生まれてしまうのは致し方のない事だ。 何故なら、僕はどうしようもなく、とても弱い人間だから。
数日前に自身で取り決めた決意すら、たった二日という短い期間で崩れようとしている。 独りで平気だと宣ったはずなのに、今の僕は誰かを、人の温かさを求めている。
今思えば僕は、ずっと独りでいた中学時代にだって、当初は独りが楽だと達観しておきながらも、月日が経つにつれてものの見事に独りは嫌だ誰かと居たいと願ってしまっていたのだから、昔よりは成長しただとか変わっただとか散々自分自身に言い聞かせていたけれど何の事は無い、あの頃から僕の心は何一つ成長を来していなかったという事だ。
三つ子の魂百まで――いつぞやに玲さんが言っていた諺は、まさに今の僕を表すにうってつけの言葉だ。 いくら見様見真似で作り上げた見てくれだけの性質で自分自身を纏おうとも、僕が生まれながらにして持ち合わせていた心の性質まで覆す事など出来やしない。
そしてこの心の性質は、僕の心臓が鼓動を止めるまで一片たりとも変化を来す事は無いだろう。 いや、僕だけじゃあない。 きっと人間誰しもが、生まれながらにして持った性質を心に携えて、その生涯を終えるに違いない。
どこかの文献で、人の心筋細胞は人が生涯を終えるまでに半分程度しか変わらないと見た事があるけれど、きっとその残り半分、生まれてから死ぬまでに残り続ける細胞にこそ、人の性質が宿っているのだろう。 人の身体は、脳は、心臓の脈動無しで活動する事は出来ないのだから、心臓が独自の機能を持っていたって驚きはしない。
何故なら人は楽しい時に心が躍り、酷い事を言われたら心が傷つき、悲しい時には悲しみが胸を打つ。 そうした感情に対して心や胸という表現をしている通り、心臓とは、人間の感情を表す第二の顔なのではないかと思う。 その心がころころと性格を変えてしまっては心臓の持ち主も狼狽えてしまうからこそ、人の性質はある幼少期を過ぎた頃から死ぬまでずっと、同じままなのだろう。
だからこそ僕もその例に漏れず、今になって独りが寂しいなどと人のぬくもりを求めているに違いない。 三郎太や古谷さんとは話せそうにないけれど、竜之介か平塚さんならまだ、近づく余地はあるかも知れない――でも、やっぱり駄目だ。
散々僕の方から彼らを避けておいて、今になって都合良くすり寄って来られれば、彼らも良い気はしないに決まっている。 しかし、このまま独りっきりを貫き通す事は、恐らく叶わない。
なら僕は、一体誰を頼ればいい。
僕は体育座りの膝に顔を埋め、ただただ絶望した。 以前のように膝小僧を濡らす事は無かったけれども、涙の出ない分、鬱屈した感情が滓となって胸の底に溜まってゆくのをはっきりと感じる。
その滓を排出する事も出来ずに溜め続け、そうして、その鬱屈が胸の底を破って溢れ出る時、僕の心はきっと壊れるだろう。 それこそ私の問題どころじゃあない。 最早僕が僕で在る事すらもままならなくなるに違いない。
「……」
暗闇の中、僕は考え続けた。 竜之介や平塚さんに頼らず、この心の滓を浄化出来る方法を。
――そうして、浮かび上がってきた唯一の解決策は、僕にとって最も気の進まない方法だった。 しかし、もう、それしか僕が壊れないでいる方法は、無い。
それから予鈴が鳴り響いた。 僕は顔を上げて曇天を仰ぎ、どうか夕方まで雨は降ってくれるなと空に願いつつ、この場所を去った。 僕の安っぽいプライドを投げ捨て、ちっぽけな決意を固めるのに、教室までの道のりは長すぎた。 あとはもう、野となれ山となれ。




