第四十四話 溢した水は戻らない 1
眺めているうちに寒気を催しそうな灰色の凍雲を仰ぎつつ、僕は昼食のパンを頬張った。
「……寒いな」
僕は今、実習棟の外部階段最上階――玲さんで言うところの憩いの場所に一人座している。 何故玲さんすらも訪れる事を敬遠するこの冬期に体を震わせながらもこんな場所で一人昼食を食べているのかというと、実のところ僕自身も何故この場所にふらりと赴いたのか分からずにいた。
三郎太からの食堂への誘いを頑なに拒否した後、教室にも居づらくなってしまった僕は当てもないまま教室を抜け出して、無意識という訳では無かったけれども、気が付けばこの場所に辿り着いて昼食を摂っていた。 恐らく、一人で昼食を摂れる場所がここしか思い浮かばなかったからだろうと思う。
――嘘だ。 一人で昼食を食べるくらいならば、わざわざこんな所で寒さをこらえて震えながら食べなくとも、それこそ実習棟四階辺りの適当に座れる場所を選んでいれば、せめてこの身に刺さるような寒さは回避出来ていただろうに、その回避行動を取りもせず剰え自ら酷寒の地を選んだという事は即ち、この場所へ赴く事に何かしらの理由なり目的があったのだ。 そして僕はパンを頬張っている内に、その答えに辿り着いていた。
僕は玲さんに救いを求める為に、この場所に来た。
自分で自分を嘲笑したいくらい、馬鹿で愚かで浅ましい行動だ。 彼女との関係はもう終わってしまった筈なのに、僕はまだ彼女の存在を、彼女のやさしさを、彼女の温かさを求めている。 けれど言わずもがな、玲さんはこの場所には居なかった。
正直、端から期待はしていなかった。 しかし心のどこかでほんの僅かな希望が弱々しくも火を灯していたのは事実で、けれどもその弱々しき灯は、この場所に辿り着くと共に冷寒極まりない寒風に吹き付けられて敢え無く消え去った。
それにしても、外気温も助けているといえども、一人の昼食がこれほどまでに温かみのないものだとは考えもしなかった。 入学して間もなく竜之介や三郎太と友達になってからは毎度三人一緒に食堂で食べていたし、のちに古谷さんや平塚さんも加わった事により、その五人で昼食を食べる事が当たり前になっていたからこそ、余計に一人での昼食のつめたさが身に染みるのだろう。
普段は当然のようにその時間を享受していたけれど、いざ失ってみるとこれほどまでにあの時間が尊いものだったとは思いもしなかった。 大切なものは失ってから初めてその大事さに気が付くなんて何処かの若者向けの歌に使われているような歯の浮くフレーズを、よもや僕自らが体現して見せようとは、自分で自分を鼻で嗤ってしまいそうになるくらいに滑稽だ。
「三郎太、結構怒ってたな」
パンを食べ終えた頃、僕は覚えずぽつりと呟いた。 僕が古谷さんと三郎太の恋仲を知ってしまった以上、三郎太からは僕に声をかけ辛かっただろうに、彼は僕を食堂へと誘ってくれた。 その心は僕への当てつけなどではなくて、古谷さんに任せるだけでなく、自分の口からも彼女との仲を僕に伝えたかったのだろう。
あの三郎太が、これまで僕に憚りなど見せた事のないあの三郎太が、似合わずどぎまぎしながら僕に声を掛けてきた。 きっと彼は古谷さんと恋仲になってしまった事に対し、彼なりに苦心していたに違いない。
そもそも三郎太が苦心する必要など無いのだ。 彼は一人の男として古谷さんという女性を愛し、そうして、自身の想いを彼女へと伝えた。 古谷さんもまた、そうした三郎太からの熱烈な想いを感じ取ったからこそ、彼の想いを受け取ったのだろう。
誰かを好くのに誰かへ断りを入れる必要は無い。 その結果が浮気に発展するならばまだしも、僕と古谷さんはただの友達だった。 だから僕に、三郎太を責める資格など無いのだ――のに僕は、三郎太が話しかけてきた瞬間から彼への嫌悪を胸中で増幅させていた。 僕から古谷さんを奪った裏切り者だと彼を蔑みながら。
だからこそ、せっかく三郎太が気を遣って僕を誘ってくれたというのに、僕はその厚意を憎たらしい皮肉を以って地に叩きつけてしまったのだ。 気さくな三郎太があれほどまでに僕に敵意を向けたのも仕方が無かったのだとすんなり納得出来てしまうくらい、まるで擁護の仕様も無いほどに、こうした事態になってしまったのはまったく僕の稚拙な反抗心が生んだ結果だったと言えるだろう。
そして僕のこの愚かな行為によって、三郎太だけでなく、きっと竜之介や平塚さんにも呆れられるだろう――いや、その方が今後の僕にとって色々と都合が良いかもしれない。 今、竜之介や平塚さんに慰められようとも、三郎太の時みたくどこかのタイミングで彼らに皮肉を溢してしまいかねない。 そうならない為にも僕の方からはもう、彼らに近寄らない方が良いだろう。
彼らの方から近寄ってきたとしても、適当に相槌を打って、僕という人間に何の価値も無い事を彼らに知らしめてやれば、そのうち彼らの方からも近寄ってこなくなるだろう。 何、独りの時間は中学時代に嫌というほど経験している。 今更独りになろうとも寂しさなどはこれっぽっちも感じる筈はない。
およそ彼ら彼女らと友人になれたのが僕にとっての偶然あるいは奇跡とでも言うべき僥倖だったのだから、それが今まさに僕の目の前から消失しかけていようとも、僕はそれに名残惜しさなどを感じてはいけない。 偶然や奇跡によって一時的に与えられた慶福たる境遇に縋り続けるのは如何な愚者の僕でもまったく無駄な行為だという事くらいは理解しているつもりだ。
だからこの際、きっぱり諦めよう。 こんな男にも女にも成れなかった僕みたような人間には勿体ないくらいの境遇だったのだ。 今僕の目の前に神様が現れて、「これまでの出来事はすべてお前の夢だ、お前は数秒後に目を覚まし、大いなる喪失と孤独を味わう事となるだろう」と宣告されようとも、僕はその事実をすんなりと享受した上で「たとえ夢の中であれ、この僕に夢のような生活を送らせてくれた事に感謝します」と恭しく頭を垂れてやろう。
――そうだ、これは夢だったのだ。 そう思い込んでしまえば、僕はもっと楽になれるかも知れない。 今思い返してみても僕にとって都合の良すぎる出会いや展開が多すぎたのだ。
古谷さんの告白からすべてが始まり、玲さんという世界で唯一の理解者を得て、竜之介や三郎太から男というものを学び、紆余曲折を経ながらも、僕は次第に男というものを理解し、自分のものにしていった。 そうして、いよいよという時に玲さんと決別し、古谷さんは三郎太を選び、僕は独りぼっちとなった。
およそ夢というものは何の脈絡も無く物語が二転三転ところころ変わったりするものだから、今まで都合の良い方向に話が展開していただけに、僕の目が覚める直前になってこれまでのツケがどっと押し寄せてきたのだろう。
そして僕の夢のピークはきっと、文化祭で個人的に賞を受賞した辺りに違いない。 あの辺りで目を覚ましていればよかった。 それならば、夢の中でさえこれほどまでに絶望を与えられる事も無かったろうに、だから今のどうしようもない状況は、それ以上の良い出来事を願ってしまったが故に起きた自業自得の事故みたいなものだ。 そして、これが夢だと分かった以上、僕は目を覚まさなければならない。
この世の事象には必ず対が存在する。 コインの裏表、光と影、男と女、そして、寝れば必ず目が覚める。 人の見る夢は夢の中だからこそ尊いのであって、それが常日頃から付き纏ってしまったら、それは最早普遍のものであり、現実世界と何ら変わりが無くなってしまう。
いつまでも未練たらしく夢の世界に逃げようとも、待っているのは夢から覚めた時の虚しさとみじめさだけだ。 だからこそ、その虚しさとみじめさとをこれ以上増幅させない為にも、僕は今すぐ、夢から覚めなければならない。
さぁ、僕は十分に良い夢を見させてもらった。 こんな夢の続きはもうたくさんだ。 早く目を覚ましてくれ、僕!
「――覚める訳、ないじゃないか。 ここが僕の、現実なんだから」
卑しくも、夢の世界に逃げようとしていたのは自分自身だったという現実を僕自身に突き付けられた僕は、絶望に打ちひしがれながら体育座りの両膝に顔を埋め、そうしてひとり、膝小僧に雨を降らせた。 晴れる気色はしばらくありそうにない。 昼休みが終わる頃には、止んでくれていたらいいのだけれど。




