第四十二話 ひとひらの花びら 7
"好きだったよ、古谷さん"
その言葉は、私がどれほど待ち望んでいた言葉だっただろうか。
寝ても覚めても、いつの日か必ず彼の口からその言葉を聞ける日を夢見ていた。
こんな形でその言葉を聞く事になるとは夢にも思っていなかったけれど。
こうしている間にも、彼の足音は私から遠ざかってゆく。
本当にこんな形で、私たちの関係は終わってしまうのだろうか。
他にも伝えたい事は沢山あったはずなのに。
どうしてだろう、ぜんぜん思考が回らない。
"私は三郎太くんを選んだ好きだったよ古谷さんユキくんが好きと言ってくれたユキくんはトランスジェンダー嘘だ何であのユキくんがどうして嘘だ嘘だ嘘だ"
湯水のごとく湧き上がってくる取り留めのない思考は私が平静でいる事を許さない。 頭の整理がまるで追い付かず、何をどれからどう処理すればいいのかすら分からない。 思考の渋滞で頭がパンクしてしまいそうだ。
こうしている間にも、彼の足音は私から遠ざかってゆく。 もう、足音はほとんど聞こえない
振り向きたい。 今からでも。
でも、振り向いてしまったら、私の何もかもが終わってしまいそうな気がした。
だから私は振り向かなかった。 この機を逃せばもう二度と、彼との距離が縮まらない事を理解していながらも、ずっと。
「……あれ?」
気が付くと、私の目からは訳も分からないうちに涙が流れ始めていた。
いったい、何の涙なのだろう、これは。
悲しみじゃない、悔しさでもない、ましてや、嬉しさなんかじゃあない。
――なるほどこれは、諦めの涙だ。 私は直感で理解した。
でも、諦めの涙だという事は、私はまだ彼に未練を持っていたという事になる。
あれほど悩みに悩んだ末に決意を固めたはずなのに、なんて私は未練がましい女なのだ。 ならこの涙を無理に止める必要はない。 私の未練もろとも、この涙に洗い流してもらおう。 そうすればきっと、今更彼に揺れ動いてしまいそうな私の心も正されるだろうから。
そうして諦めの涙を認めた途端、私の胸中に滞っていた様々な感情が、涙となってぼろぼろと溢れ始めた。 流せど流せど止まらない、まるで洪水だ。 ついには嗚咽まで始まってしまった。
ああ、振り返らないで良かった。 こんな顔、彼には見せたくないから。
「……私もずっと、好きでした、ユキくん」
彼の足音は、もう聞こえない。 私の声はもう、届くことはない。
『そっか、言ったんだな、ユキちゃんに』
「うん」
夜も更け、午後は二十二時過ぎ。 私は自室で三郎太くんと通話していた。 内容は――今日のユキくんとの出来事だ。
『分かった。 来週俺の方からも声掛けてみるわ。 ――でも、悪かったな千佳ちゃん』
「何が?」
彼の謝罪が私にとって要領を得ないものだったから、私はすぐさま聞き返した。
『俺を選んだばっかりに、その、ユキちゃんとはもう前の仲には戻れねーっていうか、最悪友達でも居られなくなるかも知れねーから。 俺にも、言えた事だけど』
「何言ってるの三郎太くん、謝る事ないよ。 私はそれを承知で三郎太くんを選んだんだよ」
そうなってしまう事は、私が三郎太くんを選んだ時点で分かり切っていた事なのだ。 だから彼が気に病む事は無い。 私が三郎太くんを選んでもなおユキくんと以前の仲を保てるだなんて楽観は、微塵たりとも持ち合わせていなかったのだから。
ただ、三郎太くんとユキくんの仲が険悪になってしまうのは、あまり考えたくはない。 作為的だったとはいえ、以前の体育大会の時の三郎太くんのユキくんへの冷たい対応でさえ、私は心が痛かったから。
『そうか、そうだよな。 俺もこんな経験は初めてだから、ちょっと弱気になってるわ。 それにユキちゃんだけじゃなくて、リュウとか真衣ちゃんにも事情説明しないといけないんだよなぁ。 何かお腹の辺りがぐるぐるしてきたぜ……』
「もしあれだったら二人には私の方から話そうか?」
『――いや! ここで逃げたらユキちゃんに示しがつかねぇ。 リュウに投げられようが真衣ちゃんにビンタされようが、俺は自分で言うぞ!』
「分かった。 その三郎太くんの熱意が伝わったら、きっとあの二人も納得してくれるよ」
『だといいけどな。 んじゃそろそろ姉貴が風呂上がる頃だから風呂の準備してくるわ』
「うん、それじゃまたね三郎太くん」
『おう、またな千佳ちゃん』
そうして彼との通話は終了した。 私はもちろんだったけれど、やっぱり三郎太くんの方も私と正式に付き合うにあたっての不安や心配事を抱えていたらしい。 それもそうだ。 浮気では無いとはいえ、自身の友達に以前からアプローチを掛け続けていた女の子を横取りしてしまったようなものなのだから。 それを受け入れてしまった私も私なのだろうけれど。
「――はぁ」
三郎太くんとの通話が終わった後、私はベッドの上に仰向けになりつつ、一つだけ溜息をついた。 その溜息には、私の様々な感情が含まれていた。
――あの時はひどく取り乱してしまったけれど、時間が経つにつれて少しずつ落ち着きは取り戻してきて、今では普段と変わりなく三郎太くんと会話出来るほどには回復した。 けれど、いくら私の気持ちが落ち着いたからといって、ユキくんが明かしたあの発言をすんなり受け入れる事は、やはり私には出来なかった。
「――ユキくんが、トランスジェンダー」
帰りの電車内でも、夕食中でも、入浴中でも、そして、三郎太くんと通話中のふとした合間にも、私の脳裏にはユキくんの口から放たれたあの発言が過っていた。
その名を聞いた事はある。 中学の頃、LGBTに関する特別授業というものを受けた事があったから。 でもまさか、ユキくんがそうだったなんて、誰が予想出来るものか。
正直、今でも信じられない。 けれど、ユキくんが嘘や冗談でああした事を言うような人間でない事は知っている。 だから彼の言葉は一言一句まさしく真実だったのだろう。 それでも、俄かには信じ難い事実だ。 これは私の夢なのではないかと思ってしまうくらい――いえ、願ってしまうくらい、信じたくなかった。 でも、思い当たる節が無い訳では決して無いのも事実だった。
かわいいものが大好きで、男性にしてはすごく柔らかな言葉遣い。 彼の命令口調なんて耳にした事が無い。 垣間見せる女性のような仕草。 その中でも耳に髪を掛ける動作の艶っぽさは、女性より女性らしく私の目に映った事もある。 極めつけは文化祭の時の執事役だ。 お互いが忙しくて二人きりで喋る機会は無かったけれど、遠目から眺めていた彼は、背の高さという男っぽさを備えていながらも、一人の女性にしか見えなかった。 だからこそ、唯一単独で特別賞に選ばれたりしたのだろう。
思い返せば思い返すほどに、ユキくんがトランスジェンダーであるという事実が肉付けされてゆく。 その事実はもう、疑う余地もない。 私の頭の処理は依然追い付いていないけれど、ひとまずは認めよう。 彼がそうであるという事を。
けれど、そこは認めるとしても、では何故ユキくんは私にその事実を明かしたりしたのだろう。 それだけが未だ腑に落ちないでいる。
話の全貌を聞いた訳ではないけれど、彼の話からすると、その性質が原因で中学時代にはかなり苦労をしたようで、地元の高校を避ける為に一時間以上の通学時間を労する事も厭わずに今の高校を選んだのだから、私には到底想像もつかないような、凄絶な差別を受けていたに違いない。
だからこそ、いくら私にさえもその事実を明かしてはいけなかっただろうし、彼にとって何のメリットも無かったはずなのだ。 もしかすると、私が三郎太くんを選んだという事実にショックを受けて、自暴自棄になってしまったという可能性も無視は出来ない。 でも、あのユキくんが、そんな後先考えない行動に走るだろうか。 そうだとはあまり考えたくなかったけれど、そう考えるしかない程に、彼の行動には突拍子が無さ過ぎた。




