第四十二話 ひとひらの花びら 5
古谷さんにそうさせてしまったのは紛れも無く僕の所為だ。 これだけははっきりと言い切れる。 そもそも、端から僕が古谷さんの好意に対し明確に拒否の姿勢を取っていれば、古谷さんはここまで僕に固執せずに済んでいたのだ。 ひょっとすると七か月も待たなくとも、もっと早くに三郎太と恋人同士になれていたかも知れない。 それらのもしもの道を閉ざしてしまったのは、他の誰でもない僕だ。
種の無い植木鉢に水を差し続ける古谷さんに『もしかしたら種が入っていて芽が出るかも』と半端な希望を与え続けてしまったのは他の誰でもないこの僕だ。 トランスジェンダーである僕が女としてではなく男として女性に恋したいという願望を古谷さんで叶えようとした結果がこの様だ。
僕は今日まで、古谷さんにどれほど辛い思いをさせ続けていたのだろう。 先の胸中を吐き出した彼女の心情を察しただけで胸が張り裂けてしまいそうだ。 いや、それだけじゃない。 自身より誰かの事を気にかけてしまう古谷さんの事だ。 今日この場で僕に三郎太と付き合っているという事実を告白する決意を拵えるだけでも、相当の勇気を要したに違いない。 いっその事、三郎太にその事実を告げさせるという手もあったはずだ。
実際三郎太ならその役を自ら買って出て、自分を悪者に仕立てて古谷さんを庇う事すら厭わなかったろう。 でも古谷さんは、自身の口からその事実を僕に伝えた。 僕に非難されるかも知れないという恐怖を抱きながらも、自分が蒔いた種だから、自分自身でけじめをつけたかったのだろう。
僕が古谷さんの立場なら、その事を自分で相手に伝えなければならないと想像しただけで吐き気を催しそうだ。 相手を呼び出すだけ呼び出しておいて、土壇場で逃げ去る可能性も否定出来ない。 だから、古谷さんは立派だ。 僕よりよほど度胸と覚悟がある。
――なのに僕は、そんな古谷さんや、信念を持って古谷さんに告白した三郎太を、心の中で『裏切者』と切り捨ててしまった。 口に出していないとはいえ、そうした思考が僕の心から生まれてくるなんて、自分でも信じたくなかった。 けれど人は心にも思っていない事を心の中では呟けない。 心の声は誰にも聞こえず、嘘をつく必要が無いからだ。 だから、僕の古谷さんや三郎太に対するその侮蔑は、紛れもなく、隠しようもなく、間違いなく、僕の本心だったのだ。 故に僕は僕自身を『最低』だと罵ったのだ。
何もかもが遅すぎた。
自分の中の男の容の完成を認めた時点で、僕は古谷さんに告白するべきだったのだ――いや、その時点ですら遅い。 その頃にはもう古谷さんの視線は、三郎太に向いていたのかも知れないから。 だったら何時の時点ならば間に合っていた? 体育大会の時か? 古谷さんの家に宿泊した時か? 球技大会の時か? いずれかの夜の交流の際か? それとも、初めて古谷さんに告白されたあの時か?
恥を忍んで訊ねよう。 ああ、神様、僕はどうしていたら、古谷さんと結ばれていたんだ!
――虚しい。 とても惨めだ。 あれだけ否定していた神にすら縋ってしまうようでは、僕はもうおしまいだ。 この一連の流れの総てが神に仕組まれた笑劇なのだとしても、僕にはもう指先一本動かすだけの力すらも無い。 神に反旗を翻す抵抗力など到底残されているはずもなく、僕は僕自身の道化を受け入れるしかなかった。
――いいえ、受け入れるだけじゃあ神様も観客もつまらない。 彼らを満足させるには、僕がこの道化を最後まで演じ切らなければならない。 一人前の男にも成れず、女などには到底成れず、玲さんという太陽を失い、僕が男を目指すきっかけとなった古谷さんにさえ愛想を尽かされて、僕の手元には今、何が残っているのだろう。 ――無い。 無い。 何も無い。 何もかも悉く。 完成したはずの男の容も、僕に愛想を尽かして僕の元から出て行ってしまった。
抜け殻だ。 ここに呆然と立ち尽くしているのは、綾瀬優紀という人間の容をした空っぽの抜け殻だ。 男にも女にも成り損ねた、哀れな抜け殻だ。 そんな抜け殻に、神様は寛仁にも役割を与えてくれた。 それがたとえ自らの哀れ惨めを滑稽に演じ、笑わせるのではなく笑われる道化という役割であったとしても、最早僕に失うものなど何もなく、故に何も恐れる事はない。
なればこそ、全身全霊を賭して役割を演じ切る事こそが、道化に与えられた使命ではなかろうか。 きっと僕が僕本来の性質を享受する事で、この笑劇は完成するのだ。 ならばもう、迷う必要もない――
「……ユキくん、怒ってますよね。 当然ですよね。 私は自分勝手にユキくんを振り回した挙句に、三郎太くんを選んでしまったんですから」
「――ううん、怒ってなんていないよ」
正直、私を隠し続けるのにはもう疲れた。
「……え?」
「むしろ僕なんかより、三郎太を選んでくれてよかったとさえ思ってる」
古谷さんは、包み隠さず真実を語ってくれた。
「……」
「本当はね、古谷さんが僕に告白してくれた時、あの時点で僕は古谷さんの好意を受け取ってもよかったんだ」
ならば僕も明かそう。 古谷さんにだけは知られたくなかった、僕の秘密を。
「……」
「でも、出来なかった。 ううん、古谷さんの為に、そうしたくなかった」
それが道化に与えられた役割なのだから。
「……どうして、ですか」
「――僕が、トランスジェンダーだから」
そうして君は、私を知ってしまった。




